手を差し伸べるということ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

「幸せは、いつでも 手の届くところにあります。」 byマザー・テレサ 

幸せになりたいなら、まず周りの人たちを幸せにすることを考えましょう。人間は誰かを幸せにすることによってしか、幸せになれないからです。独りぼっちのお年寄りに優しい言葉をかけるとき、困っている人に助けの手を差し伸べるとき、わたしたちの間に愛が生まれます。その愛が、わたしたちを幸せにしてくれるのです。『日めくり 超訳マザー・テレサ』(PHP研究所刊)より。

 

カトリックのミサでは、全世界のすべての人の救いのために祈る「共同祈願」という祈りを唱える。けれど、困っている人たちに手が差し伸べられるように、神様の慰めがありますようにと祈りつつも、助けるのが「自分たち」であることに気づき、実際、そういう方々に手を差し伸べられる人間になれるよう成長しないといけない。

 

ところで、以前法律事務所に勤めていた際、ある弁護士が「弁護士たるもの、依頼者が持ち込んで仕事を「待つ」侍だ」と言っていた。

 

けれど、仕事とは別に、人に良いことは、人から頼まれるのを「待つ」ことだろうか?待ってから手を差し出すのか?それともアップアップしている人に気づき、手を差しのばすのではちょっと違う気がする。

 

とはいえ、自分が良かれ、と思い手を差し出したところ、ぴしゃりと叩かれた経験も何度もあるので、手を出すことにどうしても躊躇してしまう自分もいる。相手の取り方も様々。親切だと思ってしたことが、お節介を越え、悪意にさえ取られたことがある。

 

お節介にならないためには、自己満足を排除すること、相手の必要を見極める、見返りを求めない心のありようが大切だ。決して、見返りなんて求めてないし、相手が喜んでくれれば・・・と思っているだけなんだけど。まあ、それが善意の押し付け、お節介なの?結構落ち込んだものだ。

 

でもね、でもね。親切を受ける人の心、そして、相手の気持ちを受け取る謙虚さ、また、相手の好意に対する礼儀、バツの悪さなどに気をくばるのも、立派な「親切」。

 

相手の善意のくい違いに対して、いつも理解と赦しの心を準備しておきたいもの。


Do good because you are good.
善い人になるために善いことをするのではなく、あなたは善い人なのだから善いことをなさい。byヴァレンタイン・デ・スーザ神父


この言葉を信じて、結局私のお節介はやみそうにない。爆