またもや、子供(長男)の親友が遠い空へと旅立ってしまった。自死だった。
享年17歳。...あまりにも早すぎる死。
最近、長男が見かけぬ上着を着ていたので、どうしたの?と聞いたら、最近仲が良くなった友人と洋服を交換したんだ、と言っていたが直接彼に会ったことはなかった。自死というと、どうしても、親の立場になってしまうが、居た堪れず、やりきれない。
いつも笑顔で明るかった。ただ彼女がちょっと前(実際の時期は知らない)にやはり自死(飛び降り)をしており、引きずっていたようだったという。後追いか?
新聞に出ているか?と思い、検索してみたが、見つけることはできなかったが、17,8歳の自死がイタリアでもどれほど多いか驚いた。考えてみれば、3年前の長女の親友も18歳になる直前だった記憶がある。
ところで、まだ私が高校生だった頃、アイドル歌手だった岡田有希子がガス自殺を図り、一命はとりとめたにも関わらず、隙をみてビルから投身自殺をする事件があった。アイドル歌手の投身自殺は、同世代の少年少女たちに大きな衝撃を与え、以降、全国で後追い自殺が頻発。”ユッコ•シンドローム”と言われ、大きな社会問題になったくらいだった。
イタリアでは18歳は成人となるが、精神的にはまだまだ不安定なお年頃。元X Japanのギタリストのhideの時もそうだった。自死の連鎖を「ウェルテル効果」と言うらしい。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に因むのだが、物語の中で主人公のウェルテルは最終的に自殺をするが、出版当時これに影響された若者達がウェルテルと同じ方法で自殺するなどの社会現象を巻き起こしている。
話は変わるが、昨日、用事があって長男の学校へ行き、校長に長男の様子が変だと言われたので、理由を説明したら、ちょうど休み時間で通り掛った長男に校長が声をかけ、友人のことに触れた途端に号泣されてしまった。あんなに泣く長男を見たのは、彼の幼児時代以降初めてだろう。私も胸が痛く、涙が出てしまった。
「友達といさせて...」と言って、ここのところ、夕飯は亡くなった友人の共通の友人たちと過ごしているようだ。少なくとも彼らと一緒にいた方が、家にいるよりは心が癒されるのかもしれない。
私が虚しく生きてる今日は、生きたかった誰かの明日かもしれない。辛くて生き続けられない誰かのためにも、私は今を精一杯生きたい... これは、長女が補習校の高等部卒業式の答辞として述べた言葉。
そして、昨夜遅く、知人の結婚式に出席するために長女が帰宅。今朝早く出かけてしまったが、彼女の元に長男からちょっと話がしたい、とメッセージが入ったとのことで、夜中に二人でボソボソと話している声が聞こえた。やはり親友を亡くした同じ経験のある長女に気持ちを打ち明け、何か言って欲しかったのだろう。彼女は、友人の死を聞いた途端、私の前でパニックで過呼吸になった。あんな風に過呼吸になる人の姿を見たのは、私としても初めてで恐ろしかったくらい。そして泣いて泣いて、友人に、そして何もできなかった自分に対し、怒りを抑えきれず、それでもじっと耐えていた彼女を見ているのは本当に辛かった。学校の成績もどんどん落ち、進級も危ないか?と思ったくらいだ。
そういう意味では、長男の方が感情を殺しがちなので、塞いでしまうのではないか?とはいえ、彼だって進級がかかっているし、この夏、空手の全国大会だって期待がかかっているというのに...でもそれは親のエゴなのかもしれない。私も色々な感情が駆け巡る。とにかく、夫には、やたら怒ったり、怒鳴りつけないでほしいと釘を打っておいた。
長女はとにかく、心にためない。吐き出すように、とアドバイスしたようだ。
また、FBに長男が、思いを綴っていた。”君がいなくなってしまったとは、未だ信じられない。何も言わずに逝ってしまい、また君の笑顔をもう見れず、一緒に笑ったり過ごすこともできないと受け入れるのは難しい。けれど、むこうで僕たちに微笑みかけ、君が大好きだった彼女と一緒にいると約束してくれ。Ti voglio bene G. 昔も今もそしてこれからも僕の兄弟だ。いつも僕たちの心にいてほしい。これはさようならじゃない、忘れないよ。安らかに眠ってくれ。”
”Ti voglio bene” とは、”大好き”という意味だが、大切に思っているというニュアンスもあり、”愛している”という言葉よりも優しく、響きがいい。
自ら命を断つ、ということは本当に悲しいこと。家族や友人、親しい人が自死してしまうことは本当に辛く、打ちのめされる思いだろう。けれど親しかった人との絆は,死によって断ち切られるものではないだろう。天に昇り,神様のそばにいて,私たちの為に祈り,見守ってくれると思いたい。私たちもそういう思いを大切にしないといけない。本来私たちの命は,神様から頂いたもので,生かされた命であり,人と人との交わりの中でこそ生きる命だ。けれど,肉体の死を超え,神様のもとで完成する命だと思えば,亡くなった方を思う時,私たちの命のつながりは,神様と人と人とのつながりに広がるものとなるだろう。
人は支え合うもの。たったひとつ、命がぽつんと孤立しているものでは決してない。彼の安息を祈ります。私たちができることは、亡くなった方々の永遠の安息を願い、慈しみ深い神様の御手にその方を御委ねすること。神は苦しみの中に世を去った人々を決して見捨てることはない。私たちはそう信じ、祈ることができる。
神様の慰めと慈しみがご家族のもとにもありますように。
