人種に関わらずよく、幼稚園児や小学校低学年児に「T子~!!」とか「T子しゃーん!!」と言って手を振られることがある。あれっ?!私って彼らのお友達???
無邪気な子供たちに接していると、自分にもこういった時代があったのかな?と思う。あったはずだろうけど、思い出せない。
けれど、素直で正直な子供たちに会うと、心が洗われる。目が輝いている子供たちを見ると、こちらまで嬉しくなってくる。
大人の心しか知らない大人はつまらない。それは、やはり心のバランスなのだろうか?
『幸福を感じるのには童心とか、無心とか、素直さとか言うものが必要である』
by武者小路実 幸福の条件(講談社)
まさにそうなのだ。また、聖書も言っている。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1-5)
「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。 わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:33-37)
あるサイトを読んでいたら、大人は「だけど」、子供は「だから」という考え方をする、というのを読んでなるほど...と思った。
大人は
「イエス様が好き。だけど、人間付き合いも大事」
「神様を信じる。だけど、日常のことも大事」
「教会に行きたい。だけど今週はほかにもやりたいことがある」
「天国に入りたい。だけど今はそれどころじゃない」などなど。
けれど子供は
「イエス様が好き。だからイエス様のところに行きたい」
「神様を信じる。だから神様に喜ばれたい」
「教会に行きたい。だから他のことは後回し」
「天国に入りたい。だからイエス様に『おいで』って言われるようになりたい」
そんな子供のようでなければ、たとえ弟子たちが止めようとしてもイエス様のところに走っていく子供のようでなければ、神の国に入ることはできないのだよ、とイエス様は教えている。
素直に純粋だからこそ、自分の心のままで居られるのだろうな。そして人を疑わないから、殻に籠らない。自然体。好奇心旺盛...
固定的、画一的であり、新鮮味のないステレオタイプではなく、思いもよらぬ言動は、緊張とは異なる、新たな視点への気づきにつながり、新鮮な驚きがカタルシスとなるのでは。だから癒される。
自分の“子供の心”も大切にできる“大人の心”を育てて、素直に幸せを感じられる人になろう。
