映画「沈黙 - サイレンス」考察 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

昨日、待ちに待った映画「沈黙 - サイレンス」(原作•遠藤周作)が公開され, 一番はじめの時間帯の上映を観に行ってきた。ちなみに日本公開は来週の1月21日より。

 

 

江戸初期、キリシタン弾圧下の長崎...イエズス会の司祭•ロドリゴとガルぺが、棄教したとされる彼らの師・フェレイラを探すために長崎にやってくる。「信仰」を守り広めるためにロドリゴは命がけで潜伏するが、「信仰」を守るために殉教する信徒の姿を見るうちに疑問が生まれる。「このような酷い状況の中で、神はなぜ、沈黙しているのか?」

 

原作本を20歳代、また洗礼直前に読んだ。私だったら、踏み絵を踏んだだろうか? 自分の信仰が問われる作品だと思っていた。はっきり言って、こういった殉教や棄教という宗教的テーマは、信仰心がなければ理解できるのかどうか、正直、疑問。私は公開が決定した途端に絶対観る!と思ったものの、複雑な思いでいっぱいだった。正直言って「怖い」といった感覚だった。

 

ところで、数年前に在ミラノ、ミラノ外国宣教会内にて保存されている「踏み絵」を見たことがある。どれくらいの人に踏まれてきたのだろう。すり減った御絵が沈黙のまま語る重さ、そして小さくても細くても照らし続ける信仰の灯火を感じ、思わず御絵をさすってしまったくらいだ。

 

映画の中で、御絵のイエズス様「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかける。踏んだところで信仰は消えるものではない。であれば、イエズス様は、自ら喜んで、自分の御顔を差し出すだろう、とたとえわかっていたとしても、罪悪感に苛まれるだろう。

 

映画の中で、なんどもロドリゴを裏切り、見ていてイライラしつつも弱い人間の象徴であるキチジローは作者、遠藤周作自身と言われているが、長崎奉行所にロドリゴの居場所を密告したにも係わらず、その後もロドリゴの後を追い続け、赦しの秘蹟による神の赦しを頼み続ける。その姿は、恩師であるイエズスを裏切り、挙句の果てには、自ら命をたったユダの姿と重なるものがあった。

 

2時間40分というかなり長い映画であった、2時間は涙を流していただろうか。(苦笑)ちなみにイタリアの映画は休憩が入り、中途半端に気持ちが滅入ってしまったので、トイレに行くと、目が真っ赤。

 

話は変わるが、映画監督のマーティン・スコセッシ氏は敬虔なカトリック信者であり、幼い頃は映画監督ではなく司祭になりたかったという。実際に神学校にも入ったことがあるらしい。しかし、この殉教のテーマも、信者であるかどうかによっても違うし、信者であっても、日本人であるか外国人であるかによって、理解がかなり違うと想像する。

 

ロドリゴは、私は(今まで)キリストのために何をしたか?私は(今)キリストのために何をしているか? 私は(将来)キリストのために何をするだろう?という自問するが、それはそのまま、信者にも問われるものだと思う。こうしてロドリゴは踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれるが、ロドリゴは赦しを求めに来たキチジローの顔を通しロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

 

「人間がこんなに哀しいのに、主よ、海があまりに碧いのです」

海の青さが切なく苦しい。ただただ涙、涙だった。

 

そういえば、かつて日本のカトリック教会では長崎教区などで、小説「沈黙」は、信仰の為には読まない方がいいという評価がされていたらしい。そして現代の日本のカトリック教会がこの映画版「沈黙」に、どのような反応をするかはまだわからない。けれど、日本でも海外でも聖職者の方々に多く、語ってほしい。

 

私は死ぬ前に、聖地巡礼に行きたいと願っているが、やはり長崎、五島列島にも行かなくてはならないと思った。

 

Lode a te, o Signore.

主に栄光

 

追記

ロドリゴの最期に救いがあったのは、何よりもほっとできた。

 

 

 

http://chinmoku.jp  

http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/monument/

http://www.cathoshin.com/news/scorsese-pope/11294