ミラノ•ドウモ裏のキリスト教書籍のサンパウロに注文しておいた本が届いたというので、今朝取りに出かけてきた。
今週末にジュリレオ•いつくしみの特別聖年が終了し、聖なる門の扉が閉まるが、ロゴであるイエズス会のパドレ•マルコの垂れ幕はすでに取り外されていた。この1年、旅行先でもどこへ行っても、カトリック教会にかかっていた垂れ幕だ。人物の内側の目が重なり、目は3つしか描かれていない。3つの目は同じ方向を見ているように見えるが、解説によると右はキリストで、左は迷い出た人間だという。あれは神学大全そのものだ。
ジュビレオも残すところ数日。最後にドウモでお祈りをしていこうと思い中に入った。ドウモは観光客用の入口が出来てから、そちらは常に長蛇の列。左側の扉では、「preghiera」といえば、すぐに入れるが、それでも簡単なボディ•チェックとバッグの中は検査される。中に入っても、観光客用と信者用では、通路が別になっており、それはそれで良いのだが、やはりざわざわしているし、長椅子に座っていても、前を次から次へと人が横切っていく。
一度出て、百貨店のリナシャンテ脇の教会•サン•ラファエッラに行った。まさか、そんな所に教会があるとは思っていなかったが、すでにお亡くなりになられた知り合いの信者さんが、ここはミラノのど真ん中でもとっても静かでいいところよ、といって連れて来てくださった場所だ。
中に入ると、逆に静寂さに吸い込まれそうな感覚に陥ってしまう。宮殿や教会を設計したガレアッツォ・アレッシ氏と画家でもあり、またドウモの聖体用祭壇やサンフェデーレ教会を設計したペッレグリーノ・ティバルディ氏による設計。1582年に献堂。知る人ぞ知る芸術の宝庫でもある。
先日、空手で座禅を組んだが、座禅ではいかに頭を無意識に持っていくか、努力したが、祈りでは、いかに雑念を静め、心を神に向けるか、未だ私にとっては大きな課題である。いずれにしても、心に静けさを保ちながら生きようとする努力は、世の中が騒がしいからこそ、人間が人間らしく生きていくために必要なのではないだろうか?
そこで、スウエーデンの外交官であり、1961年に飛行機事故で亡くなられるまで国連の名事務総長でおられた、ダグ•ハマーショルドの著書「道標」の言葉を思い出した。
静寂から生まれた心の静けさの中にいること。
しかしこの自由は行動のさなかにおける自由であり、この心の静けさは人々のさなかにおける心の静けさである。
現代にあっては、聖化の道は必然的に行動のなかを通っていく。
いつも何かすることに追われ、存在そのものを忘れがちな私たち。聖マザー•テレサもおっしゃっていたが、静けさは、あらゆることに対し新しい視線を私たちに与えてくださる。
忙しく、騒々しい生活だからこそ、静けさを心に保ちたいと思った。



