取るに足りない僕 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

2週間ぶりに聖書の会に出席した。

ここ数年「ルカの福音書」を読んでいるが、最近は、前日の主日(日曜日)のミサの福音書を読み、パパ様のお説教や日曜正午のアンジェラスの祈りの解説をシスターが日本語でして下さる。

 

ミラノは、アンブロジアーノ典礼だからミサでの福音箇所も異なるので、実際ローマ典礼と同じところを読むことは年に数回くらいしかない。聖書の会に出かける前に、速攻でバチカン放送局のイタリア語版(日本語版のアップは遅い)で、前日のミサの内容をチェックしていくが、先日の日曜日は、ローマ典礼もアンブロジアーノ典礼も同じルカによる福音書であったが、読む場所は別。ローマ典礼は、「信仰の力/取るに足りない僕(ルカ17:5-10)」であった。

 

 「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)

 

この「取るに足らない」という意味はどういうこと?とシスター。う...ん、役に立たないってこと?イタリア語ではsiamo servi inutiliという。このinutileは英語のuseless。直訳すればやはり「役に立たない」となってしまう。けれど、語源をたどっていくと、ラテン語ではin-が否定形を示し、utile,つまり役に立つの否定形であれば、単純に役に立たない、となってしまうが、実際utileには「利益を生む」という意味もあるので、「利益を求めない」、つまり自分のしたことに報いを求めない、と取れる、と解説された。

 

ところで、先日、地元オラトリオの責任者の緊急ミーティングが行われた。知らないうちに、私もオラトリオの責任者の一人になっていたのだが(苦笑)そのうちの一人が、仕事を得たので、急遽いなくなり、どう穴を埋めるか?という内容だった。彼女は、まだ20代半ばであったが、あるカトリックの運動を通じ、青少年教育に携わり、またキリストの愛を伝えるため、あちこちで奉仕をしており、住む地域も違うのだが、昨年ひょんとやってきたのだった。ギターがうまく、毎週ミサでギターを弾き、またアラブ系のやんちゃ軍団が来ても、真正面から躊躇することなく対応し、彼らには絶対の信頼を得ていた。

 

ドンボスコの教育ではないが、若者をただ愛するのではなく、若者自身が愛されていると実感させることが大切で、男勝りの彼女の真似はできないと、遠くから見ていた。ただ、後からわかったのは、彼女は教会から”支払われていた”ということ。ミーティング中、人によっては、同じことしててなんで???という空気を感じた。責任者といっても、人によっては午後の貴重な3時間、おしゃべりだけで終わる人もいれば、一緒に若者と遊ぶもの。雑用も全てこなすものと関わり方は人それぞれ。 

 

まあ彼女がいくらもらっていたか、ボランティアであろうかなかろうか特に興味のない話。私はどちらかというと、引っ張り込まれて、気づいたら抜けられない状況であったのだが(涙)大切なのは、その仕事に携わる時、いやいやであるならやる必要はなく、やはり喜びをもってできるかどうかが問題なのではないかと思う。ただ、私も家族や自分の時間もあるから、週に何度もできます、とは言えないし、信者でない夫や次男に対しては、教会、教会とはそうそう言いづらい。

 

結局、支払いがあるかどうかは別として、後任が決まったらしい。それは別としても、毎日のオラトリオ、私は週1だけの手伝いだが、複数回来ている人もいる。ただ、人の対応、掃除に買い物etc。月曜日担当としては、前日それこそ仕事として掃除に来ている人がいるというが、実際には、トイレも汚いし、ゴミもたまったまま。しかも、缶ジュースの空き缶を捨てたゴミ箱には、ものスゴイ数の蜂がやってきて、ゴミ回収が恐ろしい。また、これからの時期、落葉もひどくレレレのおじさんのごとく、掃除ばかりしているとそれだけで日が暮れてしまう。

 

他の曜日の担当の人が、トイレ掃除をしているのか、ゴミ箱のゴミを回収しているか、私がどうこういう問題ではないけれど、少なくとも月曜日にこれだけ溜まっていて、しかも人の出入りを注意しながら、万が一アラブ系の子供達が喧嘩をし始めたら、もう私はパンクする!と言いたいことを司祭にぶちあけた。

 

私よりも20歳も若い司祭は、私の顔を見て、わかった。考えておく。と一言いい、カテキズモの準備をしていたが、その後はカテキズモが始まるギリギリまで自ら箒をもって落ち葉掃除をしていた。

 

人は誰かに褒められたり、認められることは嬉しい。高く評価されれば誰しも悪い気分にはならないだろう。多分、自分が認められた時(むしろ”認められた”と感じる時)自分の存在理由を見出すのかもしれない。誰もが、他人を基準として自分の存在価値を見出すから。

 

"Essere per" 誰かのため、何かのために生きることは理想だ。けれど、誰かのため、何かのために生きているだけだと自分自身の人生は生きられない。他人からどう見られているかを意識した時、結局他人の評価に振り回されてしまうだろう。自分の場所にいて、自分の目の前にある出来事、事柄をするのは、それが自分のやるべきこと、課せられたことだから。誰に認められたい、褒められたいからではない。結果的に人に褒められることもあるかもしれないが、それは決して第一の目的ではない。

 

命じられたことをする。しなければならないことをする。それは誰かのためではなく、最終的には自分のため。そして自分に戻ってくる。それ以上でもなくそれ以下でもない。

 

ふと、ある詩を思い出した。

 

人見るもよし、見ざるもよし、我は咲くなり。

 

他人の判断を自分の存在理由にするのではなく、自分自身で自分のことを決め、やるべきことをする。

 

司祭の掃除をする姿を見、言いすぎたことをちょっと反省。そして、福音書が語った言葉を自分のものにしようと思った。