今年も帰国中の恒例行事の一つ、東京目白の聖母病院内で行われている, ヴァレンタイン・デ・スーザ神父様による聖書の集いとごミサにあずかってきた。
今年で5回目。
毎年8月は夏休みに入るので、7月いっぱいの集い。毎年1,2回参加しているが、時期的に雨が多い。
今朝も家を出た途端に、小雨がぱらぱらと降り出した。時間ぎりぎりに到着すると、すでに神父様は到着されており、黙想が始まっていた。席に着くと同時に、汗が噴出し始めてきたが、タオルで抑えつつ、呼吸を整える。今回もこの機会が得られたことを感謝、ここ数日の間に永眠された知人や叔母に心を寄せた。徐々に、心も落ち着いてくる。
「限られた人生。心を開き、いただいた恵みに感謝する気持ちを忘れず歩んでいけるよう、神様私たちを祝福してください。」神父様の静かな口調で始まり、先週からの続き、というヨハネの福音書8章28-44節を全員で読んだ。今までいろいろな聖書教室に参加しているが、やはり朗読は自分自身で声に出す、いわゆる音読が一番頭で砕いて、飲み込める。余談だが、イタリア語のsapereという単語は、(学習を通じて)知る、知っている、わかっている、(どんなものかを経験的にも)知る、知っている、わかっている、という意味があるが、語源はラテン語のsapere「 味わう」が原義。ついで、『分別をわきまえる』『知る』へと転義している。
真理はあなたたちを自由にする。
神父様は、聖書のみ言葉を日常生活の出来事、出会いなどと結びつけて説明してくださる。
自分の文化、伝統を大切に。根付くためには時間がかかる。根付くものが自分の中にとけていかないといけない。例えば、勉強したもの、栄養、他者から聞いた言葉など、体にとけた時、初めて自分のものとなる。
なるほどな...と思う。人の言葉。聖書の言葉も自分の中にとけて、それが自分の言葉、自分の行いとなれば、それは自分のものとなるはずだ。真のキリスト者となることだろう。
また、沈黙がなければ祈ることはできず、祈ることがなければ沈黙をもてない。それなしでは、自分の使命に気づけない。『沈黙は金雄弁は銀』
親子関係にしても、かかわり方、心の会話、心のふれあいが大切だと神父様。かといって時に沈黙することも必要だという。ああ...思うことがあり、反省。耳と目は二つ。でも口はひとつです。2倍聞いて、1倍話す。これが2倍話していたら大変ですね。苦笑
移り変わる社会、そして日常生活の中で、”永遠”のものを見つける。悟る力。誰かが『受け入れる』ということと同じですか?と聞かれた。『悟る』とは「りっしんべん」ですね。つまり心のあり方です。
以前、神父様は著書「そよ風のように生きる」の中で、”悟りを求めて歩かないようにしましょう。悟りは、あなたの中にあります。”とおっしゃっている。
日常生活、心を開いて歩んでいく努力を惜しまないことだ。人々から頂く恵みが増えるほど、自分が変わり、悟ることができることだろう。自分自身に振り回されないように。ああ、私はまだまだだ、と思った。
神よ、私に目を注ぎ強めてください。手を差し伸べて。
頂いた恵みに感謝し、人々によって、人々と共に、人々の内に歩ませてください。
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-12053865264.html