楚人に楯たて と矛とをひさぐ者有り。これを誉めて曰いは く「わが楯の堅きこと、よくとほすもの無し」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利きこと、物においてとほさざるなし」と。ある人曰く「子の矛をもって、子の楯をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。
楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、貫くことのできるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、どんなものでも突き通すことができる」と言った。ある人が「あなたの矛でその盾を突き通したらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった。
そりゃそうだ!「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の二つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。
ところで、誰の中にも多少なりとも矛盾というものがあると思う。それに気づいているか、気づいていないかは大きい。特に、本人よりも第三者の方が、他者の矛盾は感じやすい。自分自身その矛盾に気づいてしまうと、自分に対する葛藤がおきるが、そうでない場合は、矛盾した言動を押し通す。下手したら偽善者とみられる危険性もある。
最近、自分自身、何か喉に引っかかっているような、すっきりしないものを抱えていた。内容は控えるが、本音と建前というか、本当の心の声(本音)が、自分の活動に反していることにじわじわ気づいていつつ、ある事件を通し絶対ダメだと拒否反応を起こした。
ただ、たとえ誰に迷惑をかけていなくても、そして私の本音が社会的には一般的な意見としても、神に対し、自分自身に対し、嘘をついている、つまり矛盾が心を重くする。
楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、貫くことのできるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、どんなものでも突き通すことができる」と言った。ある人が「あなたの矛でその盾を突き通したらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった。
そりゃそうだ!「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の二つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。
ところで、誰の中にも多少なりとも矛盾というものがあると思う。それに気づいているか、気づいていないかは大きい。特に、本人よりも第三者の方が、他者の矛盾は感じやすい。自分自身その矛盾に気づいてしまうと、自分に対する葛藤がおきるが、そうでない場合は、矛盾した言動を押し通す。下手したら偽善者とみられる危険性もある。
最近、自分自身、何か喉に引っかかっているような、すっきりしないものを抱えていた。内容は控えるが、本音と建前というか、本当の心の声(本音)が、自分の活動に反していることにじわじわ気づいていつつ、ある事件を通し絶対ダメだと拒否反応を起こした。
ただ、たとえ誰に迷惑をかけていなくても、そして私の本音が社会的には一般的な意見としても、神に対し、自分自身に対し、嘘をついている、つまり矛盾が心を重くする。
思い切って、ある司祭に話してみた。社会的、政治的背景の中で起きる問題はたくさんある。自分一人の判断に基づかないように。神様の知恵と恵みに頼りましょう。神様の慈しみが、私を導いてくださるといわれた。そう...カトリック信者であれば、そうあるべきなのだ。
自分の醜い部分を目にした時、それに対し許す心の余裕が必要だ。許せないと、つまずいてしまう。アラフィフにして、自分の生き方に迷う。100%自分の矛盾から解放されたわけではないが、自分の現状を認め、謙遜にあるべきだと痛感。
もう少しで洗礼10年。ジュビレオに際し、新たに出発するために力を頂いてこよう。
