「敬老の日」に向けて考える | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



「シルバーウイーク」という和製英語を耳にし、思わず笑ってしまった。「ゴールデンウイーク」に対する秋の大型連休かあ。

で、何と何の祝日だったっけ?思わず考えてしまった。「敬老の日」と「秋分の日」だ。

ハッピーマンデー制度によって幾つかの祝日が法改正され、海外にいて海外のカレンダーに合わせて生活していると、思わず「浦島太郎」の気分だ。

ところで、「敬老の日」は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としている。

成長という言葉は、ある時期まではポジティブに聞こえるが、生きている間は、進む方向は皆同じ。いつまでも若い気でいるが、気づいたらアラフィフ。子供の頃、高校を卒業したら、皆おじさん、おばさんだと思っていた。とっくに自分はその「おばさん」道を極めているはずだが、どこかに認めたくない自分がいる。年齢なんて関係ない。だから、このまま60代、70代をいっても絶対年寄り扱いされたくない自分がいるだろうなあと想像がつく。

両親も「敬老会」なんて絶対入りたくないといっていたが、理解できる。(今は足腰に支障が出てきて、歩くのもしんどそうだが)変に憐れむ対象にされたくないのだと思う。

本当の意味での「敬う」ってなんだろう?まだまだ元気な年齢上お年寄りの方は、もっともっと「活用」すべきだと思う。「誰かのために役立つ」という認識は生きている(く)活力にもなる。

イタリアのお年寄りは基本的に元気。孫がいる場合は、多くの人が待ってました!のごとく、孫の学校のお迎えやら習い事の送り迎えをしている人が多い。働く娘や息子の家庭を手伝いを率先的にしている感じ。教会で一緒のご夫妻は、毎日孫の幼稚園のお迎え、習い事があれば送り向かいをし、そうでない日は公園へ連れて行き、自宅へ連れて帰り、母親が戻ってくるまでいてあげるという。そこまではわかるが、夕飯まで作ってあげ、家事まで手伝ってあげているというから、良くも悪くもすごいなあと思う。さすがに、私だったら、自分の親でも気を使ってしまうが。それでも彼らをみていると、生き生きとしている。

ただ、夫婦の別居や離婚も多いので、そうなると元舅、姑の関係になるとなかなか難しいものもあるらしい。

ところで、中国では日本でいう「敬老の日」は、旧暦の9月9日(新暦では10月16日)に「重陽の節句」があり家族で集まったり、祖父母に何かプレゼントをするそうだ。また長寿を願って菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべたお酒を飲んだりするという。

そして、10月1日は、1991年に国際連合が定めた「国際高齢者デー」。高齢者の権利や介護問題、高齢化問題などを考える人ということで啓蒙活動を行っているという。

この夏は、親の老いをひしひしと感じ、やたら死生学や人間学についての本を読んだ。どうしても人間の晩年の生き方を考えてしまうからだ。年は取るものではなく迎えるものだと「老年学」の修士号をもたれるヴァレンタイン神父が著書の中でおっしゃっていた。

人間は, 最期の瞬間まで生きる意味を見つけようとする存在だと思う。人との関わりを求め続け、さらには大いなる存在(神、仏)とのつながりを考えることも多くなってくるのではないだろうか。よく人生を四季に例えるが、季節が深まるほど、つまり高齢になるほど、精神的に豊かな人生を送るためにはどうあるべきか。

Quality of life。何に重きをおくか。結局は若い頃からの心がけと前向きな姿勢でありつつ、年を重ねていくものだと思う。

「老いのレッスン」はすでに始まっている。