小学校卒業の時、一度教室に集合し、卒業式が行われる体育館へ移動する前に、クラスでよく歌った、「コンドルは飛んでいく」と「シャローム」を担任の川上先生のオルガン伴奏によって歌おうとしたら、涙がドドドーーーっ。だからと言って、中学以降の卒業式で泣いたかどうかというと記憶がない。22年前イタリアへ来る前、仕事を辞める最後の日にもドドドーーーっ。毎年、帰国の度母と別れる時ももちろんダメ。TVドラマや映画、読書、聖歌の歌詞にもドドドっときてしまう。でも家族には見られたくないから、何気に誤魔化すのだが、そうしていると父も同じようによく涙しているのに気がついた。なんだ、そういう所、父似なのかな?そういう意味じゃ母の涙は見たことがない。
そして、見知らぬ人の葬儀でも涙が出る。故人と家族、友人との間にあった愛の証を想像するだけでもぐっとくる。人の悲しみ、苦しみを聞いてあげていても、感情移入してしまい泣くこともよくある。それと、まだイタリアへ来る前の若い頃、法律事務所で働いており、毎年外国人のロースクールの学生の受け入れ担当をしており、それこそ証券取引所や裁判所などに案内したものだが、一度、中国人の犯罪に絡んだ裁判を傍聴しており、通訳付きの被告人のお涙頂戴的なストーリー発展に一人ボロボロ涙したこともある。あちゃ~。
なんなのだろうなあ。情が深いというよりも、情に流されやすいのかもしれない。苦笑
ところでイタリアの学校じゃあ入学式も卒業式も、それほど感慨深いものはないが、補習校の卒業式は、他人様のお子さんでも、親子での二人三脚の苦労を思うと、じわーーーっと毎年来ていたが、今年は長女が高3。長男が中3。去年の時点で、あ~もう来年はダメだあ...と思っていたが、残すところあと1週間ちょっと。
長男はまだ高等部に進むが長女はここで日本語というか、国語教育に終止符を打つ。私自身の後悔よりも彼女が将来後悔しうることが沢山あるだろうことを思うと、心苦しいが、ここはやはり受け入れるべきだと目を瞑る気になった。海外にいる2世、3世になると日本語はもちろん、文化さえも継承されていないケースを沢山知っている。非常に残念だが、子供に多くを望むのはやめておこう。
ちなみに、長女は答辞で、昨年自死をした友人の死を通し、生きることの意味を考え、後輩たちにメッセージを残すという。今から既に胸が熱い。
話は逸れたが、親子の葛藤の中で、迎える卒業式。これはゴールではなく、未来につながる通過地点だ。そして、「子供は宝石」。沢山の可能性を秘めている。
生きる目的がある人には、ほとんどいかなる生き方も可能である(byヴィクトリー フランクル)
子供を無条件に受け入れ信じるというのは非常に難しい。けれど、そこで自分も育てられているのだと思うとこれまた、ぐぐぐっと来る。
卒業式が不安だあ。