今年もまた、東京の聖母病院にて、チャプレンであるヴァレンタイン・デ・スーザ神父様の聖書の集いとミサにあずかってきた。
今年で3年目。もともとは、18年前、一時帰国中、上智大学がある麹町教会の建て換え時期に友人に声をかけられて行った勉強会が縁で神父様とは知り合いになった。4年前の夏の終わりに,神父様がサヴァティカル休暇でミラノにいらしており再会。ミラノのチェントロをご案内したが、逆に行く先々で教会内を説明していただき、イエス様にご挨拶。よくもまあ次男(当時5歳)が最後まで着いて来たものだと今でも思う!
ところで、毎年帰国していると、会いたい友達があまりにも多く、予定がいっぱい。今日は勉強会の前に二人の友人とランチに出かけ,その後聖母病院へ。そこには、また別の友人がきており、勉強会、そしてその後のごミサの後にアポイント第2部。いずれにしても、皆さん、カトリックつながり。
今日の勉強会のテーマは、マタイ24章1-20節。
『神殿の崩壊を予告する』『週末の徴』『大きな苦難を予告する』という部分。
神父様との勉強会は、まず5分近く,目をつぶり沈黙から始まる。すると、いきなり私のバッグから「Siriがインターネットに接続してません。」とIphoneから声を出し始めたから驚いた。Siriって何よ!誰が設定したの?急遽電源を切った。再び、目をつぶると、遠くのほうで、やはり携帯音の音。あちゃ・・・心の中で思っていると、「何かの妨げで心が乱れた場合は、再び深呼吸をもって心を整えてください」と神父様。すると、また違う方向から携帯音・・・。苦笑
私はいつも、雑念ばかり。祈りの途中で、まったく違うことが浮かぶことさえある。一度心を整えなおさないと,結局、ながら祈り、独り言でおわってしまう。
個人が頼っているもの,大事にしているものはありますね。でもそれがすべてになってはいけません。頂いたものを使いながら留まらず、進んでいきましょう。留まると沈んでしまいます。あなたのいるところに神がいます。植えられたところに咲きなさい。あなたのいるところに恵みがあります。
「気づき」というのは、一点だけを見るのではなく、その後ろにある背景を見つつ,見えてくるものもあるのではないだろうか?聖書もその時代背景を見ながら読むのが,大切だとおっしゃるが,それはやはり一人ではどうしても無理。そして、なんといっても、忙しく、心に落ち着きがないと、惰性で生きがち。見えるものも見えなくなってしまう。
話は変わるが,ヴァレンタイン神父様の聖書の集いとミサは8月は休み。私が毎年出席するのは、夏休み前の1回か2回。今回も夏休み前の最終回であった。神父様は「夏休みの宿題」といって必ず課題を出される。「夏休みの宿題」は子供だけのものではありませんよ。とおっしゃる。問題を解くだけならたやすいが、心の修行というものは、意外に困難だ。
今年は、「家族をなれた雑巾のように見ないこと。一人ひとりの魅力を発見する。意識しながら留める。忍耐をもつこと。見えない美しさに魅力を感じ、新たな出発をしよう。」とのこと。
居て当たり前。空気のような存在、または生活が惰性になってしまうと、見てみない振りをしてしまったり、逆に気づかないこともある。目先のことに振り回されて、家族は適当になんとかなるだろう、という甘えがある。(少なくとも私の場合)
また、迷惑をかける人が来たら,逃げるのではなく、耳を傾けてあげる。そういう人は、聞いてもらうことでたいていそれで落ち着いていなくなることもある。物事を解釈し見てあげることが大切ですね。ただし、ストーカーは別ですよ。自分の都合のよいことだけを受け止める人もいますから。
私も、相手をするのが面倒で逃げている相手が若干一名いる。連絡がなくなると、やっとわかってくれたかな?と思うのだが,また恐ろしい電話やメール攻撃をしてくるイタリア人のおばちゃんなのだ。まっ詳細は彼女の名誉にかけて吹聴することはできないが、結局はさびしい人なんだろうな、とは思う。一度、彼女の話をじっくり聞いてあげる人がいなくてはならないと思うけれど,私の話など一向に聞いていないし、こちらとしても時間が共有できないのなら困ったな・・・という感じ。
またまた話がずれてしまったが,お話の中で、<どこで>とおっしゃったか記憶にないのだが、『音の瞑想』というものをお話された。音によって、人は希望を得ることもあり得るのだと。調べてみたら、やはりイエズス会で「キリスト教的ヴィパッサナー瞑想」という黙想及び研修会があり、一日少なくとも5時間(1回45分~1時間×5回)の静座をしたり、歩行しながら呼吸の観察や体の感覚の観察をすることによって、そこで生じている様々な感覚を「心地よい」「心地よくない」などの快・不快の心の反応を脇に置いて、あるがままに受けとめてゆくそうだ。
言葉なしにコミュニケーションをとる練習をこの夏にしてみましょう、と神父様。読み取る心の準備が必要。そういうのは、日本人は得意のように思えるが、それも今の時代ではそうではなくなってきているかもしれない。
気を配ることで,生活は変わります。と再び神父様。
関心、無関心。
ポジティブ、ネガティブ。・・・
確かに,意識することによって人生は豊かになることだろう。
日本のこの暑さは10年前にくらべ、異常に暑いです。それは、贅沢をしすぎた結果でもあります。暑い、暑い、または寒い、寒いというのはやめましょう。感じるのは、生きている証拠。物事逆に見ることも大切です。今、ここで自然、そして原点に戻りましょう。
その後続いたごミサも神父様の言葉の余韻が頭に残る。
移り変わっていく社会の中に永遠であるものを見つけていく。それを悟れたらなんと幸せか。
カトリックとは語源はギリシャ語のKatholikoの普遍的、世界的,全体的の意味。
神の目や耳、口などの一部になることで神を近くに感じましょう。
ごミサの後に,神父様にご挨拶。
お元気そうで何よりだった。
昨年出版された本にサインを頂いた。
祈りが生き方となり、生き方が祈りそのものになるように。
http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11579368087.html
http://ameblo.jp/sofiamilano/archive7-201207.html

