在伊21年。毎年帰国している。
子供がいない時、生まれてからも彼らが小さい時は,年に1,2回帰国することもあったが、今は夏のみ。帰国しなかったのは、震災のあった2011年の夏だけ。だから誕生日はいつも日本。夫が帰国しているときもあれば、いない時もあるが、私の両親はいつも一緒。
昨年は子供たちと日中,代々木公園へ出かけ,そこでタイ・フェアを満喫した。今年も、偶然同じ日に、タイ・フェアが開催されていたので、行こうかと話していたが,日本の海に行ってみたい、と言い出したので,じゃあ行ってみたかった江ノ島にある片瀬教会でミサにあずかり、海に行こう!と意気投合。
片瀬教会は、外観,内装が純和風。キリシタン禁止令が出る前のカトリック教会建築には和風建築もあるが、明治以降はほとんどが西洋建築。どうしても行ってみたいと思っていた。しかも、主任神父は、ミラノでお世話になっているミラノ外国宣教会(PIME)の宣教師。昨年の夏、PIMEの東京本部にお邪魔した際、片瀬教会のマリオ神父様にもお会いし、その時はイタリア語で会話をしたのだが、日本管区長のマリオはマリオ・ミエーレ(蜂蜜のようにやさしいという意味)だが、自分はマリオ・ぺペロンチーノだ(唐辛子のように辛口だという意味)!とおっしゃっていたのが、逆に好印象。その後,片瀬教会のHP上で神父様のメッセージを読めば読むほど、神父様にまたお会いしたいと思っ た。
ところで、日本のカトリック教会でのごミサの時間は、イタリアのそれに比べると,朝が早い。しかも、必ずしも近所にあるわけではないので、電車やバス、徒歩の時間を逆算すると、とても早く家を出なくてはならない。その日も朝8時半に家を出た。電車に乗って1時間。片瀬江ノ島に着いた。暑い!!
教会は、海とは反対側で住宅街に位置する。建物が見えてきたところで,ここだ~!!という安心感。「えっここが教会なの?」と子供たち。
片瀬教会の始まりは1891年、明治24年の夏、ヘンリック神父と片瀬地方の山本庄太郎氏との出会いが,ご子息信二郎氏の受洗とうい形で芽生え大正8年に山本家の一部屋に借聖堂が設けられ,ミサが捧げられた時までさかのぼるという。あとは、下記添付HPを見ていただくとして、外は猛暑だというのに、中はひんやりしておりびっくり。日が当たっている窓には、すだれがかかっており、扇風機がかかっていたが、心地よい涼しさ。ステンドグラスもなく、ただただシンプルなお御堂で、心休まる空間。
子供たちと一列に並んだ。知っている入祭の歌とともに、待者や司式神父が入ってこられた。あれっマリオ神父様ってこんな感じだったっけ?外国人の神父様で小柄なお年を召された方だが,ちょっと違う気がする。・・・疑問を持ちながらのごミサが続いた。とはいえ、引き込まれるようなお説教だった。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)
あなた方は、なぜ今日ここに来ていますか?それは偶然ではありません。イエス様に導かれているからです。
・・・海に行くつもりで来て、しかもお目当ての神父様ではない様子。子供たちも教会から離れつつ、今回は私との条件付きで出かけてきたけれど、これも神様のお導き?!座っていた長椅子の前の人の背もたれの裏側には,聖歌集が置かれるようになっていたが、そこに偶然にもペグシル(ゴルフのスコア用のペン)を発見。すぐに典礼のしおりにメモをし始めた。
『畑というのは、あなたです。そして、私です。あなたの人生、そして私の人生なのです。神の愛、イエスの計らい、導きによって、あなた方はここに来ているのです。自分は神の愛の中に生きています。畑としてすばらしい恵みを得て私たちは生きています。それを忘れると私たちは、エゴが大きくなり自己中心的になってしまいます。』
そして、最近107歳の誕生日を迎えられたというスペイン人のシスターのお話をされた。『あるスペイン人のお姉ちゃんがですね、(確かにシスター(姉妹)はお姉ちゃんともいえるか!)年寄りなんですよ。普通年寄りは、年齢が行くほど、寝る時間が短くなり、そして文句が多くなるんですね。でもそのお姉ちゃんはどうやって生きてきたのですか?と聞くと、<私は小さなものです。私を通し、輝かしい慈しみを互いのために与えなくてはなりません>といって、自分よりも若い人の介護をしているんですよ!』と面白おかしく話された。
私もその日に、ひとつ年ととり、確かに昔よりも寝る時間は短くなったな・・・そして文句も多くなった、と思った。神の計らい・・・やはり意識をもって、慈しみと共に生きることが大切だと痛感。
ミサが終わり、神父様に挨拶に伺う前に、間違えてはいけないと思い、片瀬教会の信徒の方に、司式の神父様はマリオ神父様ではないですよね?と聞くと、ちょうど私と入れ違いの時期に、イタリアへ発たれたという。あちゃ・・・そして、司式された神父様はPIMEの方ではなく、イエズス会のイバ二エス神父様ということだった。
直接ご挨拶したかったが、司祭館に行かれ、なかなか戻られず、結局お会いすることができなかった。それも、すべてそうなる日であったのだろうか・・・
帰宅して改めてマリオ神父様のメッセージを読んでみた。すると、あるスペイン人の作家 MIGUEL DE UNAMUNOの言葉が紹介されていた。
「私の中には、三人の人がいる。一人は他人から見られている私、二番目は自分自身が見ている私、そして神から見られている私」
うわ・・・っと思った。通常、人は、他人から見られている自分を気にしがち。とはいえ、何か理不尽なことを感じた際、神様が私のことをご存知ならばそれでいい、と思うことさえある。この自己矛盾。なんなのだろう。
キリストによって、キリストと共に、キリストの内に生きること。それが私たちの人生に意味を与えること、本来はそれだけなのかもしれない。結局は、基本に忠実。神に忠実。
日々の生活の中で,神がもたらしてくださる賜物を意識するよう教えて頂く機会を与えられた気がする。それが、輝かしい生活、希望の源となるように,沈黙、そして祈りの一時を保てるように、私の誕生日、恵みのごミサであった。
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