パパ様ツィッター ~ 11月 その② | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 11月11日 

Dio ci ama. Scopriamo la bellezza dell’amare e del sentirsi amati. 神は私たちを愛しています。愛と愛されているという美しさを見出しましょう。 


Ricordiamo le Filippine, il Vietnam e l’intera regione colpita dal tifone Haiyan. Siate generosi nella preghiera e con l’aiuto concreto フィリピン、ベトナム、台風ハイエンによって被害を受けた領域を思い出しましょう。祈りと具体的な助けにおいて、寛大でありますように。 


11月14日 
Abbiate cura della creazione. Ma soprattutto prendetevi cura delle persone che non hanno il necessario per vivere. 神の被造物の仲立ちをしましょう。特に、生きるために必要なものを持っていない人たちのためにお世話しましょう。 


11月15日 
Cari giovani, siate sempre missionari del Vangelo, ogni giorno e in ogni luogo. 
若者の皆さん、皆さんは毎日、どの場所においても常に福音の宣教師であります。 


11月16日 
Gesù ha voluto conservare le sue piaghe per farci sentire la sua misericordia. Questa è la nostra forza, la nostra speranza. イエスは私たちに慈しみを感じさせるよう、傷を保たれました。これは、私たちの強さであり、希望であります。 


11月18日 
Confessare i nostri peccati ci costa un po’, ma ci porta la pace. Noi siamo peccatori, e abbiamo bisogno del perdono di Dio 私たちの罪を告白することは、多少の苦労・償いを要しますが、私たちに平安をもたらします。私たちは、罪びとで、神の許しが必要です。 


11月19日 
I Santi non sono superuomini. Sono persone che hanno l’amore di Dio nel cuore, e trasmettono questa gioia agli altri. 聖人は超人ではありません。彼らは、心に神の愛をもち、他者にこの喜びを伝える人々です。 


Profondamente commosso dall'immane tragedia che ha colpito la Sardegna, chiedo a tutti di pregare per le vittime specialmente per i bambini. サルデーニャを襲った恐るべき悲劇に深く心が動揺しています。犠牲者、とりわけ子供たちのためにお祈りください。 


Papa Francesco ‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‎‏@Pontifex_it 


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パパ様ウォッチャーとして、パパ・フランチェスコは人をくつろがせる寛容な方、慈悲深いお方、優しい笑顔のお方、お会いしたらまた、きっともっとお会いたくなるお方・・・と感じる。それは、キリスト教信者であろうとなかろうと、そのユーモアあふれる人懐こさに親しみを感じることと思う。 

では、人の魅力の秘訣は?! 

もちろん、その人のもつ、個性とは別に、その人を活かす芯なるもの、それが作動する。けれど、『信念』と『信仰』は違う。 

「信念」とは、自分はこう思う、こう考えるという主張を強く固めてそれを揺るがないようにすること。けれど、強い意志は、時として、それが『エゴ」になったり『プライド』になってしまい、それに固執してしまうことがあるだろう。 

では『信仰』とは? 

イタリア語では『信仰』をFedeというが、Fedeには「信用」、「信頼」、「忠実」という意味もある。私たちは日常生活において、お互いに相手を信頼し、自分白身を委ねる。小さな子供は、親を信頼し、患者は医師を信頼し、自分を委ねるのだ。自分が「すべて」で、信頼する相手がいないとしたら、それは不幸ではないだろうか? 

そして、相手が神であるとき、神に忠実になり、はじめてそれが『信仰』になるのではないだろうか? 

話がそれてしまったが、幸せを運ぶ人になりたいものだと、つくづく思う。そのような人のまわりには、いつも人が集まることだろう。人を幸せにすれば、自分も幸せで、いつも生き生きとしていられる。 

ただ、未熟な私は、苦手な人に会うと、ブロックしてしまう。寛大さが足りないのだろう。相手を認めることは生かすこと。神がなさるように、他者の善意を認められる寛容な人間になれますように。