津波は未曾有の災害だったが、日本が初めて経験する災害ではない。けれど、原子力発電所の事故は、「想定外」であり、ありえないことだった。
先日, イタリアのAvvenireといういわゆる「カトリック新聞」に、日本のカトリック信者であり、聖書研究者の加藤久美子女史による「I Salmi dello Tsunami」(津波の詩篇)という記事が紹介されていた。
実際には、詩篇のみではなく、その他の旧約聖書にみる、自然観、そして神との人間との関係、とでも言おうか、が書かれていた。
神は言われた。
「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いたところが現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び,水の集まったところを海と呼ばれた・・・。」(創世記1:9-10)
創世記は神のみ業のはじまりだが、アジアでは、津波は「海」と「地」のたたかいという認識があるという。
罪ある人間は神の御力により、ほろぼされた。
けれど、亡くなられた人達には罪はない。
なぜ、神は人を見放すのですか?ヨブ記のヨブのように叫んだ人は多かったはず。
ヨブ記は、古くより人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられており、正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。ちなみにヨブはイタリア語でGiobbe(ジョッベ)と呼び、Pazienza di Giobbe(ヨブの忍耐)とは、「きりのない忍耐」という意味があるそう。
そこで、思い出されるのが、創世記の「ノアのはこぶね」。
地上の人間の業に怒りを覚えた神は「神に従う無垢な人」ノアに巨大な箱舟を作らせ、全ての動物の雄、雌一組ずつ箱舟に乗せ、来るべき日に備えた。洪水により地上の人間の大半が死に絶えたが、箱舟に避難したノアとその一族は無事だった・・・という話。
ところで、日本は、「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という非核三原則をもちながら、日本における原子力発電・原子力についての研究と商業化が進められていた。
核兵器のみならず、原子力発電、並びに原子力発電や核燃料再用が生む放射性廃棄物への反対運動が続いている中、東日本大震災及び、それに伴い起きた津波の他に津波に襲われ、全電源を喪失して、東京電力福島第一原子力発電所は、原子炉を冷却できなくなり、1号機と3号機でメルトダウンが発生。水素爆発により原子炉建屋が吹き飛び、大量の放射性物質の漏洩を伴うという大きな原子力事故に発展してしまった。
ここで、また思い出すのが、創世記の「バベルの塔」の話。
「人類が塔をつくり神に挑戦しようとしたので、神は塔を崩した」
新聞の記事に<福島>とはTerra Felice、 「幸福の土地」という意味がある、と書かれていた。そうあってほしいもの。
最後のアモス書5章1節は心を打った。
悪を憎み,善を愛せよ。また、町の門で正義を貫け。
あるいは、万軍の神なる主がヨセフの残りの者を
憐れんでくださることもあろう。
ハイチ大地震があったときに、「神の罰か」という記事を読んだ。
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「神の意思はわれわれに災害をもたらすことではなく、乗り越えられる災害をもたらすことだ」と、『なぜ善人に不幸が起きるのか』の著者でラビ(ユダヤ教指導者)のハラルド・クシュナーは言う。
自然災害は、神の意志、罰ではなく、その中にある戒めや、導きをみつけたいもの。現に、被災地に生きる人たちとの深い絆を見出し,地道に支援活動を続けている人も少なくないだろう。世界中の人々の心が、目に見える絆としてつながって行けばよいと思う。
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