友人が企画するアソシエーション・Notturno Musicaのコンサート、Quartetto Maffei に出かけてきた。
会場は、いつもの大型本屋、Mondadoriのマルチ・スペース。 画家であり、息子達の空手の先生でもある松山氏とのコラボレーション。
ところで、先日から1月27日の「Shoah」(ユダヤ人大虐殺記念日)を記念したイベントが続いているが,弦楽四重奏曲といえば、ハイドン、ベートーベンが有名だが、近代・現代音楽では、旧ソ連の作曲家・ショスタコーヴィチが生涯をかけて<弦楽四重奏曲>の多くの作品を残している。
特に、ショスタコヴィッチによって作曲された弦楽四重奏曲第8番ハ短調 作品110・「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げる弦楽四重奏曲は有名であり、上記Shoahのレクイエムともいえるだろう。
<第一部>
A. Dvorak, Quartetto op. 96 弦楽四重奏曲第12番ヘ長調 作品96B179[アメリカ」は、ドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した作品だという。
http://www.youtube.com/watch?v=_IUKjQWbGt0
A.Webern, Quartetto op. 5
http://www.youtube.com/watch?v=wCZk3CWOPlA
アントン・ウェーベルンは、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したという。1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ウェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。
1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺された。
<第2部>
弦楽四重奏曲第8番が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争映画『五日五夜』の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したという。 ショスタコーヴィチのドイツ語のイニシャル「Dmitri Schostakovich」より、D-S(Es)-C-Hの音形が全曲のテーマとして現れる、とヴァイオリ二ストより解説があった。「DSCH」の音列を中心主題の素材として用うということは、もしかするとその時代を生きた自身へのレクイエムでもあったといえるかもしれない。
www.youtube.com/watch?v=BDDNS4BM1xQ
ユダヤ人は今や世界中で生活している。その ユダヤ人は、2千年も前から自分たちの故郷を追われ、今日のイスラエル王国に至るまで、さまざまな地へ移住しながら生活してきた民族である。もちろんその移住は彼らの意志ではなく強制されたものであり、その大きな理由がユダヤ人に対する迫害がある。
上記三者作曲家はユダヤ人ではないが、どの曲でも通じて言える低音旋律が、悲劇、哀しみとして、抑圧の時代・状況下での自らの芸術活動の奮迅鼓舞を感じる。何か空しさ、そして重苦しさだけが残った。
http://www.notturnomusica.org/notturnomusica.org/Welcome.html
http://www.quartettomaffei.com/home.html
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A.Webern, Quartetto op. 5
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アントン・ウェーベルンは、オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。新ウィーン楽派の中核メンバーであり、なおかつ20世紀前半の作曲家として最も前衛的な作風を展開したという。1938年にナチス・ドイツによりオーストリアが吸収合併されると、ウェーベルンの音楽は「頽廃音楽」「文化的ボルシェヴィズム」の烙印を押され、演奏活動で生計を立てることは困難になった。このため、契約先の出版社ウニフェルザール・エディツィオーンの編集人や校閲係を引き受けざるを得なかった。
1945年に、終戦後に作曲活動を再開する思惑から、ウィーンを去ってザルツブルク近郊のミッタージルの娘の家に避難。しかし、娘婿が元ナチ親衛隊で、当時は闇取引に関与していたのが落とし穴となる。同年9月15日、喫煙のためにベランダに出てタバコに火をつけたところを、オーストリア占領軍の米兵により、闇取引の合図と誤解され、その場で射殺された。
<第2部>
弦楽四重奏曲第8番が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争映画『五日五夜』の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したという。 ショスタコーヴィチのドイツ語のイニシャル「Dmitri Schostakovich」より、D-S(Es)-C-Hの音形が全曲のテーマとして現れる、とヴァイオリ二ストより解説があった。「DSCH」の音列を中心主題の素材として用うということは、もしかするとその時代を生きた自身へのレクイエムでもあったといえるかもしれない。
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ユダヤ人は今や世界中で生活している。その ユダヤ人は、2千年も前から自分たちの故郷を追われ、今日のイスラエル王国に至るまで、さまざまな地へ移住しながら生活してきた民族である。もちろんその移住は彼らの意志ではなく強制されたものであり、その大きな理由がユダヤ人に対する迫害がある。
上記三者作曲家はユダヤ人ではないが、どの曲でも通じて言える低音旋律が、悲劇、哀しみとして、抑圧の時代・状況下での自らの芸術活動の奮迅鼓舞を感じる。何か空しさ、そして重苦しさだけが残った。
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