切磋琢磨 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

長女が補習校を辞めたいといいだした。

中学までが義務教育ならば、イタリアの現地校でも日本でも既に高校生。
自分の意思で日本語をやめてもいいはずだとのたまう。しかし100%日本人。いつ・何時帰国する日がやってくるかわからない。中途半端な日本語力ではいけないといっても、あー言えばこう言う。話にならない。しばらくこの件では闘いとなることだろう。

特に、漢文なんぞやって何の役に立つのか?といっていた。私は高校時代、現代文よりも漢文や古典が好きだった。それらは、人間学の宝庫だと思う。考えてみれば、当たり前のことを言っているけれど、噛めば噛むほど味が出るというか、人生経験を重ねてわかってくるものが多い。だから、10歳代半ばの子にとっては、退屈なことでも仕方ないか。

そこで、ひとつの言葉が浮かんできた。今の彼女には、まだまだこれが必要なんだよね・・・気づくのはいつなんだろう。

『切磋琢磨』

有匪君子   

如切如磋   
如琢如磨
中国最古の詩集「詩経」より


匪たる君子有り、
切るが如く磋るが如く、
琢つが如く磨くが如し。

現代では、学問や道徳に努め励むこと。また、仲間同士で、励まし競い合って、向上すること。という意味になっているが、川のほとりを見渡すと、緑の竹が美しい。その竹のように立派な領主様(匪たる君子)は、細工師が象牙や玉を切ったりやすりをかけたり(磋)、土とのみで削ったり(琢)砂や石で磨いたりするように修行を積み、威厳があって寛大、英明で毅然としていらっしゃる・・・・と君子を褒め称える詩の一説のようだ。

切る・磋る・琢つ・磨くは、いずれにも、骨身を削る痛みを伴う動作である。心身を苦しめるほどの修練に打ち勝たなければ、本当の自分を磨いたとはいえない。

そして、わが身の痛みから、他人の痛みへと理解が広がらなければ、人間本物とはいえないだろう。切磋琢磨を繰り返し、人間としての成長を母子ともどもしなければならないな。