今日、東京の聖母病院にて聖書講座とミサに与った。
講座とミサは聖母病院のチャプレンであるヴァレンタイン・デ・スーザ神父によるもの。
16年前、長女を妊娠し出産するため帰国中、まだ麹町のイグナチオ教会が建て直される前、友人の紹介により、神父様の勉強会に参加したのが出会いであった。
そして、昨年夏の終わりに、サヴァティカル休暇によりミラノにいらしていた、神父様に再会。ミラノのメルカートが見てみたいという神父様をご案内しつつ, 通りかかる教会という教会すべてに入り, 「イエズス様にご挨拶いたしましょう」と祈りをご一緒に捧げた思い出がある。
今日の講座は「教区ニュース」で発見したのだが, どうも毎週水曜日,聖母病院にて講座が開かれており, その後にミサが上げられている様子。
http://tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/2012/kn294.htm
http://www.seibokai.or.jp/
今日はマタイ5章の『山上の垂訓』だった。イタリア語では「Beatitudine」と呼ばれる部分。「Beatitudine」は「至福」、「この上もない幸せ」という意味である。
英語といくつかの日本語の聖書を読み比べながら, 神父様の言葉による解説。この部分は、ミサによる説教にもよく出てくるし, 聖書研究でも必ず通る箇所。とはいえ、毎回、しっくり、心に響いてこない。それが、バレンタイン神父による, 優しい, そしてシンプルな言葉を使ったお話は、渇いた心に水がしみこんで来るような感覚。自分が自分で一杯だと、人の言葉はもちろん、神様の入る場所がなくなってしまう。空気がそのまま止まってしまうのだ。
『心の貧しい人は, 幸いです。』
学生の頃, キリスト教概論という授業で、この言葉で引っかかった。 ギリシャ語原文では、「霊において『貧しい』人」とされているらしいが、『謙遜な人』そんな感じで良いのだろうか・・・ちょっと疑問だった。人間はへりくだった部分が必要であり, 自分の弱さや限界を悟った人というのは、あるがままの自分を認めた人だという。
自分の力ではどうにもならない,ということもある。そんな「無力な私」にできること、といえば、『祈りを添えて, 大いなるものに委ねる』事と, 病院内でみかけたある資料にもあった。 その祈りもどうしても, 自己中心的になりがちだ。
「人のために祈りましょう。 それは個人の生活も豊かとなり、人のためにもなります。 厳しい(生活の)人のためにも祈りましょう。神様が私たちを送ってくださった意味を考えること。私たちは、皆神様の作品です・・・。」と神父様。
自分の命、人生、そして与えられた能力などもすべて作品として与えられたもの、と考えると、初めて感謝が沸くもの。
人は本来、美しいものです。
小さな子どもたちは汚れていません。
人は成長するに従って欲望や、不安や、恐れによって
純粋な心、透明な心を失っていくのです。
私たちは常に心のゆがみを正さねばなりません。
大きくゆがんでからでは遅いのです。
一日の終わりに「今日、私は神さまの道具になっていたか。恵みを運ぶことができたか」と
反省する習慣を持ちましょう。
それは心の曇りをとり、
いつも透明な心でいられるための大切な心がけです。(byヴァレンタイン・デ・スーザ神父)
あーこの『山上の垂訓』(の行い)、この夏の宿題にしなくっちゃ。
http://inori-blog.at.webry.info/theme/37d4c00a54.html