今、曽野綾子さんの『中年以降』を読んでいる。
以前、すでに読んでいるはずなのに、内容には記憶なし。
たぶん、自分にとって『中年』は先の話とでも思っていたのだろうか。
けれど、今回読んでいて、なるほどね、そうかな?そうそう・・・などと感じることも多し。やっぱり自分自身が中年になって来たということか・・・
曽野女史いわく、人間は簡単に白黒をつけたがりたい。裁判は、真偽を見極めないといけないだろう。けれど、物事、それほど単純ではないということ。
『泥棒にも三分の理』ということわざがあるが、若いときには、泥棒は当人の根性が腐っているからだと思い込んでいた。けれど、その うち、貧しくて今日食べるものがなければ、人間は盗んでも仕方ないこともありえるのではないか・・・と思うこともある。もちろん、それを推奨しているわけではない。
先月、あれは東方教会の復活祭直前だった。
トラムの中で、ふと顔をあげた時、人がいきなり,しまりかけている出入り口に飛び込む姿が目に入った。降りる場所に急に気がついて、下りようとしていたら、ドアがしまりかけたのだろうか?と想像したのだが、それと同時に、「何するのよ~」という女性のどなり声。そして、後ろのほうで「その男を捕まえろ!」という声。それは、すべてスローモーションのように見えた。声の女性が、男性につらなった形でドアにひきこまれるようにしていった。外に出た男は、その まま走り続け、近くにいた人たちが、その男たちを捕まえようとしたが、誰をもうまくすり抜け、その男は走り続けた。一本先の道路で車が来て、トラムの乗客は皆息を飲んだ。引かれたか?どうもうまくそこも走り抜けたらしい。
道路にいた人が、何かをもってトラムにやってきた。それは携帯電話だった。例の男は、トラムの中で、携帯電話を持ちながらメモをとっていた女性の手からそれをとり、逃走したのだ。女性もすぐには、手を離さなかった様子で、逆に爪でひっかかれたのか血が流れていた。たった携帯電話ひとつ?皆、驚いていた。しかも、結局道路にそれを道路に落としたのだ。
そのトラムの停留所は、降りてすぐに後方を見ないと、車が通るので、道を渡 るのは非常に危ないところ。その男は確認もせずに走り、その先でも車にぶつかりそうになった。そんな危険を犯してまで携帯電話がほしかったのはなぜか。背格好からして、東欧系の男だった。みな、「あれはアルバニア人だ」「ルーマニア人だ」といっていたが、確かに私もそう思った。なにか犯罪が起こるたび、イタリア人は皆アルバニア人かモロッコ人のせいにするが、確かに背格好、服装などからして東欧系なのは間違いなし。
その翌日か、翌々日あたりが東方教会での復活祭だった。あの電話で国の親類、または恋人にでも電話したかったのだろうか?それとも横流しにでもして、すぐにお金が必要だったのだろうか。確かに彼のしたことは、よいことのはずがないが、なぜそんなこ とをしたのだろう・・・・ずっと気になっていた。こんなこと、若かったら絶対考え付かなかったことだもの。
人間性の理解というのは、非常に複雑で、それができるのも中年の知力であり、視力であり、経験だと曽野女史はおっしゃる。確かに、長く生きる分、多くの人に出会い、多くの経験をしているだろう。人の言動の理由というものを考えるようになってきた。もちろん、いちいちそんなことしていたら、たまらないのだけれど。