カトリックでは、クリスマス前の待降節や、復活祭前の四旬節となると、教会では黙想会と呼ばれる信仰講座とでも言おうか?そういった集まりが教会である。
テーマがあって、聖書を読んだり、 指導して下さる方の話を聞いたりしたあと、静かに一人一人の心の内で考える時間を持つもの。
忙しい日常生活からしばし離れ、自分の内面と向き合うことは、心を養う大切な経験となる。
とはいえ、地元教会の黙想会は、大抵夜の9時から。急いで、子供達に夕食を食べさせ、少なくとも次男は、お風呂に入れ、歯は磨いて出かけないと、そのまま寝られてしまってはたまらない。大急ぎで、台所の片づけまでして、教会へ駆け込むと、特に今の季節、まだ夜は寒いので、温かい部屋に入り、椅子に座り込んだ途端に疲れが出てきて、どっと頭の中が何処かへ行ってしまいそうになる。
今回の四旬節の黙想会は2晩に渡って行われた。50名近くの人たちが毎回集まる。顔ぶれはほとんど同じ。外国人たちのシスターはいるが、外国人の信徒は毎回私だけ。辞書がないとわからない言葉も多いが、調べていると、そこで置いてきぼりになってしまう。とにかく、日本語とイタリア語の聖書も持ち込むが、ほとんど開けている暇さえない。
主任神父の神学的話は非常に興味深い。頭の中が急にきーんと緊張する。
一晩目のテーマは、「修練」。
一般的に、修練というと、精神や技能を磨き鍛える事、という。(広辞苑より抜粋)ここでは、やはり信仰生活に対し、「自由」「感情」「良心」を磨くとは?いろいろな例をあげながら、話が進んでいくが、とにかく早口で(しかもイタリア語!)頭の中で、その話を噛み砕いている暇がない。ミケランジェロの作品の中で、芸術に隠れている部分を取り出すと、何が残るか?という話になった。???全く思い浮かばず。それは、「罪からの解放」だという。罪から解放されるということは、私たちは「自由」の身となり、それが「救い」となるのか?キリストの言葉は「解放の宣告」。「喜びのおとずれ」・・・だから福音なのだ!と一人で納得。
・・・・そうやっている間に話がまたどんどんと進んでいってしまう。
「罪」と「祈り」の関係。
最近のキリスト教徒には、霊的なものがかけて来ている、とぐさっと刺さるような事を言われる。
聖書はどんなに読んでも、味あわなくてはならない。Sapienza(知識)はラテン語のSapère,「味わう」から「知る」に転義したものだと思い出す。行為の伴わない信仰は侘しい。神様と出会うのは、私自身。望まなければ出会えない。
2晩目は、「聖体の秘跡」について。
信仰の神秘とは?いかにしてミサに与るか・・・
「聖霊への祈り」から始まり、50分間の講和と20分間の黙想。そして、分かち合い。「主の祈り」で終了。
普段忙しくしていると、改めて一日黙想・・・というのは、非常に難しい。教会によっては、週末、ミラノを離れ、まるまる黙想に費やす教会もあるが、地元パロッキアではないし、まだまだ今の生活ではそういったプログラムにも参加できそうにない。とはいえ、2日間にわけ、しかも夜の黙想会は、普段の聖書研究とはまた違って、すごく集中した。それにしても、イタリア人は弾丸のようによくしゃべる。自分の中で消化するだけで精一杯。(いや、まだ消化しきれいていない?!)意見など出せなかった。
最期に、今の自分の状況にあてはめて、どのような方向に向かっているか、そして向うべきか、導きを頂く機会であった。神に感謝。