私は子供の頃から泣き上戸。
嬉しい時、感動した時、涙が出る。意外に出そうで出ないのが、悲しかったり、苦しかった時。映画を観て、悲しかったりすると、涙が出るけれど、自分の経験上となると、限界まで我慢してしまうのか、それ以降は涙が出なくなってしまうのかもしれない。
人の優しさに触れたり、心にしみる言葉に出会うと、その「優しさ」や「言葉」が心と体で一つになる瞬間に、涙となる。涙は、心と体の一致ではないだろうか。
ところで、今朝、次男の友人のお誕生会がミラノの自然博物館・古生物のラボラトリオ内で行われた。化石の発掘などを体験させてもらえる変わったお誕生日会。
待っている間、私は行き当たりばったり近くの教会でミサに与った。
16世紀から2世紀かけて造られたというフランシスコ会の教会だった。ミサ自体はごくごく普通であったが、平和の挨拶といって、まわりの人と「Pace(主に平和)」といって握手をする。その時になって、祭壇にいらして主任司祭が、会衆のところに降りてきて、お御堂の奥の方へ歩いていかれた。ふと、振り向くと、私のほうに向ってこられて、握手を求められたから驚いた。「Eccomi」(私はここにいますよ)といわれた。主任司祭を通して、神が自分のところに降りてこられたのか?一瞬、胸がつまった。また最後に歌った賛美歌も何度も歌っているものなのに、なぜか今日は歌詞が心に響いてまた涙がちらり。そして、はやく誕生会の会場へ戻ろうとすると、入り口のところで、一人のご老人が、「よい一週間をお過ごし 下さい」と退堂していく人々に握手を求めていた。グググ・・・涙。行きましょう、主の平和のうちに。神に感謝。まさに、満たされた感じ。
心の渇きは、人の優しさで癒され、涙となるのでは。それは、命の水ともいえるかもしれない、とふと思った。
命の水の流れを止めないようにしたい。溜まって滞った水はやがて腐っていく。心の深みで何が響いているのかを、常に感じられるようにしていかなければ。