言(ことば) ロゴス | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

我が家の子供達は、さすがにイタリア語のほうが得意。というよりも、日本語との両立が非常に厳しい。えっ日本人家族なのに?とよく人に言われるけれど、あまりそれは関係ないんじゃないかな・・・。とはいえ、普段は何語で言葉を考えているのだろう。母語とか、イタリア語、などという壁よりも『考え』そのものが大切のようにも思える。その土台がしっかりしていれば、そして一つの言語が出来れば、努力次第で言語というのものは、幾つも重ねていけるような気がするのだけれど。 

又、長女は古典課高校に通い、ギリシャ語とラテン語を学んでいるが、イタリア人に言わせると、これらの言語を学ぶと論理的になって非常によいというが、実際どうなのだ ろう?たしかにラテン語は論理的らしいので、物事や思考に秩序を与えるのだろうか?机の上も、部屋もめっちゃくちゃな長女が、頭の中は非常に秩序ある論理的な人間であるとは、疑いの目で見てしまうのだが・・・ 

と毎回同様、前置きが長くなってしまったが、今年のアンブロージアノ典礼でのクリスマス前夜祭での福音は、ヨハネによる福音書第1章9-14節であった。 

まことの光があった。この光は世に現れて、すべての人を照らしだす。 
彼は世にあった。世は彼によって造られたが、世は彼がわからなかった。 
彼は自分のところに来たのに、民は彼を受け入れなかった。 
しかし、彼を受け入れた者、彼の名によって信じた者に、彼は神の子となる力を与えた。 
血によらず、肉の欲にもよらず、また人の欲にもよらず、その人々は神から生まれた。 
そして、言は肉となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちは彼の栄光を見た。父の独り子としての栄光は、恵みと真理に満ちていた。 


旧約聖書の創世記では「はじめに神は天と地を造られた」とあるが、このヨハネによる福音書では「はじめに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。」とある。そして、「彼(言)の中に命があり、命は人間を照らす光である」(第4節) 

また主任司祭による説教が素晴らしかった。夜中12時からのミサでも眠気は吹っ飛んだ!笑 もちろん、上記『言』(ロゴス)とは、抽象的な能力ではなく、イエス・キリストの事をさすのだが、聖書のみことばは、人生に意味と目的をもたらす、神からの希望のメッセージ。生命の水といってもいいだろう。水は心にしみ渡る。私を輝かせ、私を潤わせる。 

イタリア語で『言葉』とはParolaというが、ギリシャ語で言葉とはLogos、そしてラテン語がVerbum。というと、イタリア語でいう動詞、Verbo, 英語でのVerbがVerbumから来ているのか!と単純な私はそれだけで感動してしまうのだが、言葉というものには、そこにある感情によって、人を傷つけたり、逆に励ましたり、癒したりするものに変わる。いかに、そこに心をこめるかによって、言葉が贈り物となる。 

贈り物は、心のこもった言葉が添えられるとき、一層嬉しいものとなる。神は世界という贈り物を、しかも心のこもった『言』を添えて贈ってくださった。