パジェッラ | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。


そろそろイタリアの学校はパジェッラの時期。パジェッラとは成績表のこと。2学期制なので、1学期が終る頃に、成績表をもらう。

日本と違って、イタリアは親がとりに行き、「確かに受け取りました」とサインをする。が高校生の娘はすでにもらって帰って来た。(義務教育ではないからか?!)親はサインをするだけだが、必要に応じて、親との面接があるが、先月に引き続き2度目の呼び出し。いやっ始業と同時に、先生を知りたくて、会いにいったから3度目の面接か。なんといわれるか、もうドキドキ。

以前、この成績表は必要なのか、不必要なのかという議論が新聞に出ていた。

以前は、10段階評価であったが、77年に中断。
ottimo(最良)、 distinto(非常に良い), buono(良い)、sufficiente(普通[十分]) の言葉による評価だけであった。

が、2009年の改革で、ジェルミーニ教育大臣は各科目と素行に関し10段階の成績を再導入。

これがまた、こまかすぎるというか、そして、学校によって偏りがないのか、ちょっと疑問。

いずれにしても、ジェルミーニは「成績表は成長を助けるし、生徒がよく勉強したかどうかをはっきりと理解するのは正しいことだ」という。

でも個人的には、小学生は3段階くらいで十分だし、中学生でも5段階くらいで十分な気がするのだが。10段階あったところで、5以下は考慮されない。進級も無理。

どうも個人的に細かくわけた数字で判断されるというのは、3段階、5段階以上に心理的に、人間を数字で管理しているように感じてしまう。個人に名前があるように、商品番号で扱われるような、嫌な感覚がある。

そこで、発達心理学者のフィンツィは、点数のついた成績表は、「屈辱感を与えるおそれがある」として否定的。

私は、矛盾しているかもしれないが、成績云々よりも、試験後の結果が廊下に張り出される方が、影響力があったように思える。自分が何人中の何番目くらいにいるのか、はっきりした自分の位置。誰が上にいようが、下にいようが関係なく、自分自身に妥協したくなかった、それだけ。

まあ、いずれにしても、勉強はできないより、できた方がよいに越したことはない。要領の良し悪しもあるだろうが、最終的には、本人のモチベーション次第。(できる子はなんでできるのだろう・・・と常に不思議に思う)中高生の思春期は、あちこち好奇心が向いてしまうのは、仕方ないと思うが、どうやったら、やる気になってくれるのだろう・・・いつも頭を痛めているのだが今回、イタリアの本屋 フェルトリネッリグループのITS Feltrinelliは、成績優秀な学生に賞金を提示するという。
http://milano.corriere.it/milano/notizie/cronaca/11_gennaio_20/itis-feltrinelli-premio-denaro-studenti-migliori-181292816092.shtml

馬の鼻先に人参をぶら下げて勉強させるというのもどうなのだろう。ミラノの大学で教鞭を執っている友人によると、最近の学生は、勉強ができても、指示が出されるのを常に待っているような、受け身型の学生が多いんだとか。常に型にはめられた勉強だけをさせられ、自分で好奇心をもって前に進む学生が減ってきているという結果だろうか。それはイタリアにいても、日本にいても同じかもしれないが。

参考として、隣国の成績表はというと、フランスは1から10で示される。イギリスの小学校ではいわゆる成績はないが、教育上の進歩に対して評価が与えられる。ドイツではの成績は1から6までだが、イタリアとは逆に1が最高で、6はいちじるしく不十分となる。スペインの小学校では数字の成績はない。大変よろしい、良い、もっと頑張りましょうなどの言葉で表現される。アメリカでは数字ではなくアルファベットでA からFまでで示される。Aが最高で、Fはいちじるしく不十分となる。