夏になると小学校(国民学校)3年生頃を思い出します。
明石の白浜の事を書きました。
痛いくらいの熱い太陽の光でした。
エンジン付きの貨物船でも行き交う船全てが帆をかけていました。
帆が無いのは軍艦くらいなものでした。
航空母艦は、それはそれは大きなものでした。
エンジン音も、寝転がっている子供たちのお腹に響く程でした。
明石が、焼夷弾でまる焼けになる前日に、対岸の淡路に避難し、大きな花火大会のような明石の夜景を淡路の海岸から見ました。
翌日近所の漁師の舟に便乗して明石に帰りました。
太陽と、焼けた地面からの熱で息苦しかったのを覚えています。
ここらあたりだと見当をつけて自宅跡を探しましたが、大きく通り越していました。
遠い所と思っていた警察、市役所、国鉄明石駅の一部が焼け残っているのが近くに見えました。
手足を縮めて丸焼けの子供の死体が転がっていました。
後で、子供でなく、大人が焼けて小さくなってしまったのだと聞かされました。
両親は死んでいないと確信していましたが、近所の誰も消息を知りませんでした。
私は、弟の手を取って「大丈夫やからな。」と言いました。
弟は、丸坊主に戦闘帽の頭でうなづきました。
国民学校2年と3年の兄弟でした。