一方的な休暇延長の電報から神戸支店に戻ったときには、何と1ヶ月以上が経過しており、彼の机はすでに片付けられて存在しませんでした。
彼は座る椅子も机もなく、居心地が悪いので、退職願を書こうかとも考えましたが、なんだか戦況不利の中、敵前逃亡を図るような気分になりましたので、退職届は出さず、仕事机なしで得意先周りをしたところ、顧客からは『根性がある!』とおだてられました。
彼は人事部長宛に『長期休暇の件は私個人の判断で実行したもので、上司の管理不行き届きではありません。』と顛末書を送りました。
その所謂ではないと信じますが、船場支店を命ずるという辞令が出ました。
彼は日本の社会はいかにも厳しい社会のように見えますが、実際はとても優しい社会だと思いました。
何故なら彼のようないい加減な人間が抹殺されることなく生き残れるのですから。
船場支店は本店営業部に次ぐ大型店で、支店長のY氏も彼には大人物に思われましたし、また実際そのとおりでした。
最初にでた指示は直接Y氏からで、船場支店の全顧客ファイルに目を通し、暗記せよ、というものでした。
退屈して居眠りしても注意されることはありませんでした。
船場支店の取引先は殆どが東証一部、二部の上場企業でした。
大型店と言われる梅田や神戸支店の取引先の中心はレジャー関係の企業でしたので、最初は戸惑いました。
全顧客のファイルを暗記したわけではありませんでしたが、暗記したような顔をしていましたら担当先を渡され、その顧客へ挨拶と引継ぎに回るよう指示されました。
取引先に訪問しても梅田、神戸支店のようにオーナーや社長との面談や折衝はなく、係長、課長、副部長と言った所詮サラリーマン同士の交渉と情報の交換でした。
インサイダー取引ができそうな情報もずいぶん入りました。
人間関係の面白味は船場では希薄でしたが、海外のお金やものの動きを耳にすることも多く、日本経済の将来が新聞による活字ではなく生の人間の口から利けるのでちょっぴり本当の銀行マンになったような気分になりました。