20年くらい前、ドイツリートの鑑賞に挑戦した。まずシューベルトの『美しき水車小屋の娘』(詩はミュラー)に挑戦した。歌曲の鑑賞には、歌詞との参照が不可欠だが、ドイツ語は聞き取れないし、和訳があっても大まかな対応しかわからないので、もどかしさが残る。それで結局、難しくてよくわからないと挫折してしまった。

 その記憶があったので、この本を見つけ読んでみた。

 

 この本で知ったのは、ドイツにおける水車が社会的に持つ意味合いが、日本と異なることだった。日本では農村の穀物調製用の水車小屋は集落周辺にあり、牧歌的な印象であり、「コトコトコットン」と歌に歌われるようなものであった。

 ドイツでは、すっかり様相が異なるのだという。ヨーロッパの河川は、日本の急こう配の細流の多い河川と異なり、緩勾配の大河となりやすい。そのため水車も大きなものが作られ、大規模なコムギの製粉工場のイメージとなるという。だから水車小屋が住居を兼ねるということもなく、水車工場と水車屋の家となる。

 そして、水車屋は人里離れた、水車の立地に適した川沿いにあり、そのためいろいろな含意をもって人々からみられるようになったのだという。

 こうした立地は、密会の場となりやすく、性的な含意をもってみられ、「水車屋の娘」といえばそういう含意のシンボルともなる。また、盗賊、陰謀の場ともみなされやすい。

 水車屋がそうした差別・偏見の対象とされるには、水車屋がもともと製粉の賃料として、小麦粉の一定量を受け取るというものであり、量のごまかしの疑いの目で常に見られていたという事情が大きいという。

 これらを背景としてみないと、歌詞に含まれる含意が見逃されてしまうのだという。

                    (つづく)

 

 

 前回以降、永田和宏さん、河野裕子さんについて、何冊か本を読みました。

 

 感想、疑問などを5点ばかり書いてみたいと思います。

 

①時系列的に気づいたこと。

 

 永田さんと河野さんの出会いと、関係の深まり、そして河野さんの心には先住民としての「N」がいて、河野さんが恋のジレンマに苦しみながら、ついには永田さんと結ばれていくというふうに、私は受け取ってきました。

 

 しかし、『あの胸が岬のように遠かった』の本の河野さんの日記の日付に注目していくと、永田さんと河野さんが初めて出会うのが、学生同人誌の歌会で1967年7月20日です。

 「N」とはじめて出会う「コスモス歌会」の八島での全国大会は同年8月で、月日は書いてありませんが初旬のことだと受け取れます。

 

 この二つの出会いの日にちをみると、永田・河野の出会いの方が河野・「N」の出会いよりも、十日から二週間くらい早いことになります。すると、学生同人誌の歌会に河野さんが提出した歌の「少年めきて」「細き頸している」という青年が「N」だという解釈は時間的に成立しがたいということになります。しかし、後には「N」についても「少年めいて」という言い方はしています。

 

 同人誌での二人の出会いは、会場に早く着き二人の時間が少しあり、永田さんが自分の歌がのっている「塔」という歌誌を見せ、河野さんが表紙にとく関心をみせたとか、お互いに「生意気」と感じたとか、参加者の中の一人と一人という以上の強い関心をお互いに感じた出会いだったようです。

 

 この出会いのあと、八島での河野さんと「N」の出会いが続きます。時系列的には後になりますが、こちらの二人は「コスモス短歌会」の会員同士としてお互いの歌を読み合い、注目していたという事情があり、初対面から関係と感情が一気に盛り上がる条件があったと思われます。この出会いの時のこととして、日記に「青林檎」が出てきます。会期が終わって帰るとき、バスに乗る河野さんが「N」に青林檎を渡して別れたと書かれています。

 

②「N」考

 

 『あの胸が岬のように遠かった』の本によれば、河野さんは「N」への一途な思いを日記にすごい勢いで書き記したとあります。手紙のやり取りもあり、「N」から絵葉書で愛の歌がきたらしい、その歌が日記に書き留めてあるとも書かれています。

 しかし、私の感想から言えば、どうも河野さんが「恋に恋する」感じで、想いを募らせていったのではないかという感じがします。時系列的にみると、永田さんと河野さんが先輩に連れられていって再会するのが10月14日です。その日の河野さんの日記には、「永田さん、一目で好きになった」と記した後に「一体、何故 あの人からお返事がひと月も来ないのか」と書かれていて、「N」から返事が来ていないことがわかります。

 河野さんと「N」とのやりとりについては、永田さんは「数カ月の手紙のやりとり」と書いています。

 

③河野さんの永田さんへの傾斜

 

 学生短歌同人誌の集まりで出会った二人は、お互いに相手に注目し好意的な印象を持ったようです。二人がそれ以後会うのは、前述した先輩に連れられての再会が10月14日、翌々日16日の「幻想派」同人の講演とパネルディスカッションでは、河野さんの日記では「お隣に座っていて、私たちはお互いに意識しあっていた」と記した後で永田さんへの強い傾斜を感じたことを書いています。そして11月9日には二人で会い、次第に逢瀬を重ねるようになります。

 永田さんの心の動きを示す文章があります。「二度目か三度目の逢いの折り、彼女は『涛』という京都女子大学文芸部の雑誌を私に見せた。そこには彼女の短歌19首も載っていたが、私にはそれより、『紫苑(抄)』と題された創作に強く惹かれた。……俗な言葉で言えば、いっぺんに『参ってしまった』のである。」「私は、恋人として、確かに河野を意識した。どうしても『少年めきて』『細き頸』をしている男から、彼女を奪いたいと思った。」(『たとえば君』)

 二人は逢瀬を重ね、河野さんは二人の青年への思いの板挟みに悩むようになります。そのジレンマがほとばしり、永田さんの前で倒れてしまったり(12月11日)、感情を奔出させたり(1月5日)しますが、永田さんに決めていきます。

 結局「N」が河野さんを、永田さんとのジレンマに激しく悩ませたのは67年の10月から68年2月くらいまでということでしょうが、後遺症は多少尾を引いたかもしれません。 

 最終的に河野さんの気持ちがさっぱりと決着するのは、1969年に角川短歌賞を受賞し、授賞式に上京した際に「N」も祝いにかけつけ、京都にかえる河野さんを東京駅まで送った時のことかもしれません。河野さんが永田さんに駅まで迎えに来てと電話するときに、電話する河野さんの横で、「N」が公衆電話に十円玉をせっせと投入していたというのです。期せずして、三人の共同作業による電話連絡となり、河野さんはこのことをとてもうれしそうに日記に書いていたのでした。(当時、公衆電話での長距離通話では十円玉を途切れず投入することが必要でした。)

 

④青林檎

 

 河野さんの第一歌集『森のやうに獣のやうに』には、「青林檎」と題した29連があり、そのうち三首は「N」を思いきる気持ちをうたっているように私にはとれます。(短歌は引用しません。文章は一部引用していますが、短歌は一首全部引用することになりますので遠慮しています。著作権法的には評論のための引用は可能ですが、私はSNSでの引用は抑制的に考えています。どうぞ、歌集や著作を直接お読みください。)

 しかし、「青林檎」は八島での出会いの時のことであり、結局「N」への恋心に関連する出会いは八島のときしかなかったのだと私は受け取っています。

 

⑤河野さんは画像記憶の人か

 

 永田ご夫妻の子供さんの書いたものを読むと、河野さんはある記憶の情景や、そこにあったものなどをよく覚えていたといいます。なかには、まるで画像記憶のことではないかと思わせる記述にも出会います。優れた芸術家には、画像記憶の持ち主がいるといわれますが、河野さんもそうだったのでしょうか。

 宮本百合子の画像記憶について、宮本顕治がどこかでのべていた記憶があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 永田和宏さんは知っていた。河野裕子さんも知っていた。しかし、二人がご夫婦だったとは知らなかった。

 

 永田さんは2016年に大隅良典さんがノーベル賞を受賞したとき、雑誌『科学』にお祝いの文をのせていた。そこに短歌が添えられていた。

 河野裕子さんはどこで読んだか思い出せないが、「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか」の歌とともに覚えていた。

 この本のタイトルは、永田さんの歌「あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年」からとられている。 

 そう、この二つの歌は関連しており、若き日の相聞歌なのである。

 

 この本は、2010年に病気で妻を亡くした永田さんが、河野裕子さんが実家に残していた二人の手紙と日記を見つけ、それをたどって二人の青春を回想したものである。永田さんはこの本で河野裕子さんの、「その一途さだけはなんとか残したいと思った」とのべている(『しんぶん赤旗・日曜版』6月12日号16面)。

 

 SNSでもあり、一応きれいごとにのべておくが、実際はここまで書くかと思うようなこともあり、若い人たちには大いにお役に立つと思う。

 

 さて、感想を二点ばかりのべておこう。

 

 まず、「あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年」という歌についてである。恋人の胸が気になって気になって仕方がないのに、抱き合っていてもついに手が伸ばせず、「胸が遠かった」というのである。自分の少年性をもどかしがっているのである。

 では、「岬のように」というのはどういう意味なのだろう。私にはよくわからないが、即物的な私としては「つきだしているから」とか「出っ張っているから」ということから、海につきだしている岬のイメージを重ねたのだろうかと、想像したりする。

 

 次に、この遠い胸にたどり着く話が感動である。

 彼の実母は彼が三歳のときに結核で亡くなった。息子に伝染しないよう他家に預けられ、母とは隔離された。彼は実母に抱きしめられた記憶もないまま、父親が再婚した継母に育てられたが、決してあたたかい関係ではなかった。継母が産んだ年の離れた妹たちをは、よく可愛がり仲もよかったようだ。継母が病をえて体が不自由になると彼との関係はさらに悪化していく。

 大学に通って自由にふるまうように見え、恋人を得て浮き浮きしているように見える彼が、怒りの種になったというのである。ある日母はまだあったこともない恋人のことをののしる。ショックを受けた彼と激しい、いさかいになる。次の日、彼はそのうっぷんを抱えたまま彼女と、父の車を借りてデートする。

 鋭い直感で事態を察した彼女は、その遠かった胸を初めて開き、吸わせるのである。そして、期せずして二人とも彼の実母のことを考えていた。「この人は実母の乳房さえ知らない人だから、彼にとってこれでいいのだ」、「彼女は実母とどこかでつながっている。彼女だけが助けてくれる」と。

 彼女の死後、出てきた日記で、彼はこの時の彼女の思いを知ったのである。

 

 河野裕子さんは、戦後生まれの女流歌人のトップランナーとして若くから活躍してきたので、短歌にほとんど縁のない私でさえ知っていた。

 永田和宏さんは、細胞生物学者で京都大学および京都産業大学の名誉教授。歌人との二足のワラジを見事に履きこなす。