江戸時代は民衆社会の成熟化が進んでいたのではないか。そのことは文化・文政期などの文化や町民の生活からよくいわれるが、江戸時代の旅行に関する本を読んでみて、つくづく感じたのである。

 江戸時代になると残された旅行記などの記録も多くなる。史料にもとづいて興味深い旅に関する本がでているが、ここでは三冊をとりあげる。

 

 「江戸の女子旅 旅はみじかし歩けよ乙女」谷釜尋徳著・晃洋書房2023 は、女性の旅が盛んであったことを示し、興味深い実例をいくつかの角度から紹介している。

 女性の旅の形態には、女性のグループに荷物持ちを兼ねた男性の同行者がともなう例、男たちのグループにその中の有力なメンバーの妻女が同行する例など、さまざまあったという。

 しかし、女性の旅行が多くなるには、幾つかの条件が備わってきたことが、その条件になっていたそうだ。一つは商品経済の浸透で、女性が多くの荷物を持たないでも、旅先で必要なものが金銭を持参していれば手に入れることが可能になったこと。また、道路や宿場が整備され、女性の足で移動が可能になっていたこと、そして女性の旅行者が安全に旅行できる治安が確保されてきたことなどである。

 女性の旅の最大の制約は関所であった。「入鉄砲に出女」という幕府の政策で、女人手形を持参していても、関所の取り締まりは厳しく、「おさぐり婆さん」という女性による、髪を解き、身体まで調べるという屈辱を味あわなければならなかった。しかし、その裏には何らかのつてによる黙認によるらしい宿の者による関所破りの手引きまで存在していたというのだ。

 とにかく、旅に出た彼女たちは、実によく歩き、名所・旧跡を観光し、グルメを堪能し、土産物や物産のショッピングを楽しみ、店から自宅に発送を頼んだりしている。そして、大都市では芝居見物も楽しんでいる。

 

 「江戸のパスポート」柴田純著・吉川弘文館歴史文化ライブラリー432、2016年 は、旅行者が旅先で病気や事故にあった場合に、支援をしてくれるよう身分を証明して依頼する「往来手形」にかんする本である。

 往来手形は旅行者が檀家になっている旦那寺が発行する。形式は、旅行者の身元、宗旨、旅行の行き先・目的、関所への通過依頼、病気‣死亡の場合の支援の要請などである。

 記録によって、この手形により旅先で病気で歩けなくなり、国元まで駕籠で送り届けられた事例を紹介している。国元へ送り届ける方法は、「村送り」とよばれるシステムである。それは、事故発生の村の村役人が藩の役人の許可をとり、途中の村の役人にあてた依頼状である「町在継送状」を与えて次の村へ送り出す。途中の村も同様にして引き継ぎ、国元につくとそこの村役人が礼状を添えて、送り出した村役人にあてて町在継送状に署名して送り返すのである。

 町人・百姓の旅行が盛んになってきた元禄元年(1688)に幕府は元禄令をだし、旅行者の保護政策がはじまる。詳しいことは本書を読んでいただきたい。

 なかなか手厚い、この旅行者救援システムは矛盾を抱えつつ、明治15年に廃止されるまで続くことになる。矛盾とは、手形不所持の流浪者の増加と、偽往来手形の横行である。往来手形の発行を受けられない、いわゆる人別帳外人口の人々の増加である。勘当、義絶などで、非行に走った者による血縁・地縁からの賠償責任の回避をはかる場合も増加したという。これへの対応も深刻で興味深いので、是非本書を読んでみていただきたい。

 いずれにしても、動けなくなって村人に発見された場合、信頼できる往来手形の有無によって、救援の仕方に著しい差異が生じた。手形が信頼できる場合には「村送り」がうけられた。それがなければ、「行き倒れ」として、無人のお堂や洞穴など、かろうじて雨露だけが避けられる場所に移され、最低限の食事の提供などにとどめられ、死亡する場合が多かったが死亡してからの埋葬も大きく異なっていた。

 

 「犬の伊勢参り」仁科邦男著・平凡社新書675、2013 では、旅行のハード、ソフトともに充実する中、ついに伊勢参りしてお札を首につけてもらって帰ってくる犬まで現れたことを記録から明らかにしている。

 伊勢神宮は犬を穢れのものとして忌避してきた歴史を持つ。そこへ犬が参拝をした記録があり、これが参宮犬第一号で明和8(1771)年4月16日のことである。外宮の神官の記録である。犬が突然境内に入り込み手洗場にいき水を飲み、神殿に平伏して、それらしい所作で拝礼したという。穢れたといわれる犬でさえ、神様の威光にひれ伏していた。神はそれほどにありがたいということは犬にさえ伝わるのだという、神の威光の証明として記録したのだという。これは犬の礼拝であって、まだ犬の伊勢参りではない。

 こののち、犬の伊勢参りが目撃されるようになり、人々にも知られるようになる。有名なところでは、九州平戸藩の藩主・松浦静山と一緒に旅した参宮犬のことをことを、静山が随筆『甲子夜話』に書いている。参宮犬の始まりは。おかげ参りについてきた犬ではないかと言われている。おかげ参りとは、空から伊勢神宮のお祓が降ってきたなどのことをきっかけに熱狂的に始まる集団的伊勢参りのことである。なぜ、空からお祓がふるのかという種明かしも本書で知ることができる。

 それはともかく、犬の首に参宮犬と書いた札をつけ、お金も結んで、このお金で世話をしてくださいと書いておくと、油紙に包んだお祓を結び付けてもらった犬が帰ってくるという事例が起きるようになったのである。中には歩いた道筋の経過まで判明している例もある。

 要するに、参宮犬のことを知っている旅人たちに連れられて、伊勢まで行ってきたのである。人の世話にならなければ犬が伊勢に行く道がわかるはずがない。大河を渡れるはずもない。感心な犬だということで大切に世話して一緒に歩き、また他の人が引き継いで一緒にあるって行ったのである。その事情のよくわかる事例が紹介されている。

 旅の普及と、信仰心、当時の民衆の心の余裕が生み出したエピソードのように思える。

 

 明治初期に五人の女子官費留学生の一人として六歳で渡米し、後に津田塾大学の前身となる女子英学塾を開設した津田梅子の名はよく知られている。紙幣のデザインが変更されると五千円札の肖像画が、現行の樋口一葉から津田梅子に変わることにもなっている。

 この津田梅子は、後に再度アメリカの大学に留学しており、その時には生物学を、後に遺伝学研究でノーベル賞を受賞しているトマス・モーガンなどに学んで、その研究が高く評価されていたということは、意外と知られていないという。私も知らなかった。

 本書は、津田梅子が大学や生物学者らの、破格の好条件を示しての、研究を継続するようにとの強い勧めを振り切って帰国したのはどうしてなのか、また、生物学への向学心にどう対処したのか、生物学を断念して英語教育に専念していったのには、どんな事情があったのだろうか、などの諸点を科学史家である著者が解明した評伝である。

 

 それにしても六歳で渡米し、11年間もアメリカで過ごしたということは、今日から考えても驚くべきことだと思う。五人の留学生のうち、年長の二人はホームシックで体調を崩し翌年には帰国している。年少の三人は、よくアメリカに順応し健やかに成長した。津田梅子は在米日本外交官の書記を務めたアメリカ人の家庭に預けられた。子供のいなかった夫妻は梅子を実の子のように育てた。

 10年から11年の留学を果たして帰国する際、年長の二人は大学まで学んだが、最年少の梅子は大学までは進めずに帰国した。

 

 女子官費留学生が帰国したとき、驚いたことに就職口など受け入れ態勢は何もなかった。そもそも、女子の留学は当時のアメリカの家庭での経験を持って、日本で結婚してほしいという程度の発想だったらしい。梅子のほかの二人は良家に嫁入りした。一人が著名な軍人・大山巌と結婚した大山捨松である。捨松は元の名前は咲子だったが、母はアメリカに送り出す際、「捨てたつもりで待つ」という悲壮な覚悟で改名させたのだという。この留学仲間三人は生涯強いきずなで結ばれ、梅子の英学塾に協力を惜しまなかった。

 梅子は職を探し、華族女学校の英語教師となる。そこで、生徒の従順だが自主性と積極性のない態度、日本の良家の子女のおかれた状態にショックを受ける。梅子は自ら女性の可能性を極めてみたいと、アメリカの大学への留学を決意し、退職を申し出る。ところが、校長や宮内大臣らは辞職願を書き換えさせ、教員のままでの留学扱いにしてくれたという。

 

 梅子は現在ではアメリカの著名な女子大学となっているブリンマー大学(ペンシルベニア州)に留学する。この大学は女子に男子に遜色のない学問・研究の機会を提供することを目指し、教授陣にはそうそうたるメンバーが集っていた。梅子は名目は英語教授法の勉強を掲げていたが、大学で集中したのは生物学であった。カエルの卵割の研究で成果を上げ、トマス・モーガンと共著で論文が学術誌に掲載されている。

 

 本書は梅子が生物学から離れ、女子の英語教育に傾注していった、あるいは、そうせざるをえなかったのか、ということについて、科学とジェンダーの視点で解明している。梅子と日本の女性科学研究者の草分けの世代とは約20年の差があるという。草分け世代の足取りにも触れて、科学とジェンダーの問題を考察している。学術書であるが、一般読者にも読みやすい。  

 

             (東大出版会・2800円)

 

 シューベルトの歌曲「美しき水車小屋の娘」は、ミュラーの詩にシューベルトが曲をつけた複数の歌曲で成り立った、筋書きをもつドイツ・リートの名曲であり、「冬の旅」とともにドイツ・リートの名作といわれています。

 筋書きを簡単に言うと、水車工場で働く製粉職人の青年が、修行の旅の途中で働くことになった水車屋の娘と恋に落ちます。しかし、狩人があらわれると娘はそちらに惹かれてしまい、若者の恋は打ち砕かれてしまいます。そして、若者は川のせせらぎが優しく招き呼び掛けているように感じ、川に身を投げて安らかに流れに身をゆだねるという話です。

 このミュラーの詩は、当時の社交界のサロンで、美しい詩を作る少女と出会い恋に落ちたミュラーが、そのサロンの仲間とサロンで演じた劇に向けて作った、ミュラー自身と恋人の詩を基にして作り上げた詩です。

 それにシューベルトが作曲しました。この本を読んで、改めて聞いてみると、しみじみと心にしみてくるものがあります。

 「冬の旅」もミュラーの詩に曲をつけたもので、「菩提樹」などは広く知られていますが、雰囲気の全く異なった諦観の漂う曲です。