わたしにとっての神様 | とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

山の麓で 英語塾をしています。週末は東の都 東京のおうちで過ごし とりあえず今日を 明日もまた今日を生きようと ゆるりゆるりをモットーに過ごしています。


久しぶりに
名古屋にいこうと思っている

というのは
牧師をしている友達 

わたしにとって
 キラキラ懐かしい思い出 キラキラのある
名古屋のとある教会
牧師として赴任 されたので

挨拶がてら
訪れてみたい気持ちになった 

その教会を初めて訪れたのは
その教会で伝導師をしていた友人を
訪ねた昔にさかのぼる

友人といっても

新入社員になりたての職場で
理不尽な酷い苛めにあい

精魂尽き果てて
精神的に不安定になっていたわたしに

親身になって
寄り添ってくれたという

決して対等とはいえない
関係性ではあったが

たとえ
友人という言葉を使ったとしても
彼女がわたしにしてくれたことは

友情という枠を越えた
 愛 と呼ぶに等しいものだった

昔のことなので
その時の教会の思い出も
おぼろげなものになっており
もう知っている人も
いないだろうけれど

そんな彼女との キラキラ思い出 キラキラもあり
これもひとつの縁(えにし)のように感じ
その教会を訪れたい気持ちになった 

もし礼拝にでることになれば
福音派の教会の礼拝にでるのは
2年8ヶ月ぶりになるのだが

礼拝に出席できる気持ちになれるかは
その日の心にまかせようと思っている

礼拝に出席し
説教を聞いても
心が大丈夫でいられたら快挙だな ニコニコ

まっ いざとなったら
頓服がお守りですきらきら!!照れきらきら!!

こういう書き方をすると
わたしが行っていた福音派の教会は
とんでもない ムンクの叫びカルト ムンクの叫びなのかもと
思われる方がいるかもしれないが

わたしがいっていた福音派の教会も
友達が牧師をしている名古屋の教会も
カルト教会ではない

聖書無誤説をとる
聖書信仰に基づいた
福音派のプロテスタト教会であるが

聖書無誤説をとる
聖書信仰に基づいた
福音派のある牧師の説教に
わたしの魂が酷く
痛めつけられてしまい

それ以来
わたしの心が
聖書無誤説をとる聖書信仰に
ついていけなくなり

聖書の言葉を使った説教を聞くと
心がしめつけられるように苦しくなり 
具合が悪くなってしまうのだ

福音派の聖書信仰は
聖書は誤りなき神の言葉とし
聖書を絶対的権威としているので

その聖書の言葉を使えば
悪くするといかようにも
人を支配しようとすればできる

‘’ 聖書に書いてあるから‘’ と
有無をいわせなくしてしまえる
 怖さ がある

たとえその意図がなくとも
思考停止状態にさせ

マインドコントロール状態に
陥らせることも可能である

わたしの魂は
聖書を絶対的権威として
聖書の言葉をふりかざす牧師の説教に
恐怖を感じて血を流してしまったのだ

そしてその血は
今でも膿となって残っている

だから 

聖書の言葉を使った説教を
聞くというのは

その説教の内容によっては
その膿に塩を
すりつけるようなことなのだ

わたしは礼拝に
いかなくなったのではなく
いけなくなってしまったのである 

でもそれはそれで
良かったのかもしれないと
今では思っている 

わたしにはもう
神学も教義も聖書さえも 
もうどうでもよいことなのです

悲しみも 苦しみも 
神様と共にあり

喜びも 楽しみも
神様と共にあり
 
神様を心に感じて日々生きること

宇宙的な計りしれない大きさに
包まれているかのような

まるで神様と胎盤で
いつも柔らかく
つながれているかのような 
安らかなこの感覚 

それがわたしにとって
神様とのすべてであり

神様の深い憐れみと真実によって
神様を信じさせてもらっている

それがわたしのすべてなのです

そしてそれでいいのです

     神とはいかなる言葉をもってしても
            説明しえないものであるが
               経験しえるものである
                    
                     カール ヒルティ