久しぶりに
名古屋にいこうと思っている
というのは
牧師をしている友達 が
わたしにとって
懐かしい思い出 のある
名古屋のとある教会に
牧師として赴任 されたので
挨拶がてら
訪れてみたい気持ちになった
その教会を初めて訪れたのは
その教会で伝導師をしていた友人を
訪ねた昔にさかのぼる
友人といっても
新入社員になりたての職場で
理不尽な酷い苛めにあい
精魂尽き果てて
精神的に不安定になっていたわたしに
親身になって
寄り添ってくれたという
決して対等とはいえない
関係性ではあったが
たとえ
友人という言葉を使ったとしても
彼女がわたしにしてくれたことは
友情という枠を越えた
愛 と呼ぶに等しいものだった
昔のことなので
その時の教会の思い出も
おぼろげなものになっており
もう知っている人も
いないだろうけれど
そんな彼女との 思い出 もあり
これもひとつの縁(えにし)のように感じ
その教会を訪れたい気持ちになった
もし礼拝にでることになれば
福音派の教会の礼拝にでるのは
2年8ヶ月ぶりになるのだが
礼拝に出席できる気持ちになれるかは
その日の心にまかせようと思っている
礼拝に出席し
説教を聞いても
心が大丈夫でいられたら快挙だな
まっ いざとなったら
頓服がお守りです
こういう書き方をすると
わたしが行っていた福音派の教会は
とんでもない カルト なのかもと
思われる方がいるかもしれないが
わたしがいっていた福音派の教会も
友達が牧師をしている名古屋の教会も
カルト教会ではない
聖書無誤説をとる
聖書信仰に基づいた
福音派のプロテスタト教会であるが
聖書無誤説をとる
聖書信仰に基づいた
福音派のある牧師の説教に
わたしの魂が酷く
痛めつけられてしまい
それ以来
わたしの心が
聖書無誤説をとる聖書信仰に
ついていけなくなり
聖書の言葉を使った説教を聞くと
心がしめつけられるように苦しくなり
具合が悪くなってしまうのだ
福音派の聖書信仰は
聖書は誤りなき神の言葉とし
聖書を絶対的権威としているので
その聖書の言葉を使えば
悪くするといかようにも
人を支配しようとすればできる
‘’ 聖書に書いてあるから‘’ と
有無をいわせなくしてしまえる
怖さ がある
たとえその意図がなくとも
思考停止状態にさせ
マインドコントロール状態に
陥らせることも可能である
わたしの魂は
聖書を絶対的権威として
聖書の言葉をふりかざす牧師の説教に
恐怖を感じて血を流してしまったのだ
そしてその血は
今でも膿となって残っている
だから
聖書の言葉を使った説教を
聞くというのは
その説教の内容によっては
その膿に塩を
すりつけるようなことなのだ
わたしは礼拝に
いかなくなったのではなく
いけなくなってしまったのである
でもそれはそれで
良かったのかもしれないと
今では思っている
わたしにはもう
神学も教義も聖書さえも
もうどうでもよいことなのです
悲しみも 苦しみも
神様と共にあり
喜びも 楽しみも
神様と共にあり
神様を心に感じて日々生きること
宇宙的な計りしれない大きさに
包まれているかのような
まるで神様と胎盤で
いつも柔らかく
つながれているかのような
安らかなこの感覚
それがわたしにとって
神様とのすべてであり
神様の深い憐れみと真実によって
神様を信じさせてもらっている
それがわたしのすべてなのです
そしてそれでいいのです
神とはいかなる言葉をもってしても
説明しえないものであるが
経験しえるものである
カール ヒルティ