仏陀は弟子たちに語った。
「
瞑想し、礼拝し、祈るときは、得た安らぎのすべてを、すぐに分け与えることを覚えておきなさい。
一瞬たりともとっておいてはいけない。
もしそうするなら、あなたを非宗教的だと言おう。
瞑想して歓びにあふれたなら、その歓びが必要とする人々に分け与えられることを、すぐさま至高の存在に祈りなさい。
ハートの扉を開き、歓びを必要とする人へとそれを流れさせなさい あたかも山をくだる水の流れのように。
」
仏陀はこの偉大な慈悲を、究極の解放と表現した。
だから仏陀の像はすべて、その前で帰依する者が慈悲の共鳴や波動を自分の内側に感じられるようにつくられた。
だが、どうしたら仏陀の像を礼拝できるのだろう?
もっとはっきり理解できるよう、ひとつの例を挙げよう。
仏陀の像を礼拝したいのなら、礼拝の中心はハートだ。
このことを知らないと、仏陀の像は決して理解できないだろう。
なぜならその像の本当の目的は、あなたの中に慈悲を生み出すことなのだから。
慈悲のセンターはハートだ…
だから仏陀を礼拝している間、意識は一方で彼のハートに、もう一方で自分のハートにあるべきだ。
あなたは両方のハートがひとつのリズムで鼓動している感覚へと、深く沈潜して行かねばならない。
すると、自分のハートと、仏陀の像の内側にあるものを繋ぐ絆を感じる時が訪れる。
それを感じるだけではなく、見開いた目で像のハートが脈打つのを見ることができる。
それが起こったら、あなたは像に命が授けられていたことを知るだろう。
さもなければその中に命はなく、礼拝することに意味はない。
もし正しく自分のハートの脈動に瞑想し、同時に仏陀のハートに瞑想するなら、像のハートが脈打つのを見ることができるーふたりの間に関係が築かれる。
するとちょうど鏡に映る自分の顔を見るように、自分のハートと仏陀のハートは一緒に鼓動しているだろう。
ハートが鼓動するのを鏡で見たことがあるかね?あなたは、鏡は鏡だ、あらゆる動きを必ず映し出すと言うかもしれない。
深い意味では、より深い宗教的な意味では、偶像も鏡になり得る。
だからあなたのハートと偶像のハートは脈動する。
これが起こらないと、礼拝は始まらない。
なぜなら、依然として偶像はただの石だからだ。
その中には命が吹き込まれていない。
仏陀の像に瞑想したければ、その中心はハートになくてはならない。
マハヴィーラに瞑想したければ別の中心があり、イエスにはまた別の、クリシュナにはまた別のものがある。
どの像も異なる中心に基づいてつくられている。
ある社会が特定の偶像を数千年にわたって礼拝してきたとしてもその中心に気づいていないこともある。
そして中心が知られていないと、像との繋がりを結ぶことはできない。あなたは花や香を捧げ、それにぬかづくだろうーだが、すべてはただの石に対して行なっていることだ。
覚えておきなさい。
石は神に変容されねばならない!
その部分は彫刻家が行なうことではない。
あなたが行なわなければならない。
彫刻家はそれに形を与えるだけだ。
命を注ぐのは誰か?
命は、帰依する者が吹き込むべきだ。
さもないと、それはただの石にすぎない。
礼拝は像に命が与えられて初めて始まる。
OSHO