情熱 | BLACK VELVETS

BLACK VELVETS

火水(ホシ)の舞踏と祝祭の音

シンギングボウル と霊性に
身体から働きかけるワークを
やっています

第五の質問


瞑想は情熱的であることができますか




そう、それが瞑想が存在するための唯一の道だ


情熱はエネルギー、情熱は炎、情熱は生命だ


もしあなたがどんな情熱も、強烈さも、「炎」もなく


ただそこそこに瞑想をやっているとしたら、何も起こらない


もしあなたがたんなる儀式として祈るとしたら


それがハートのなかに湧き上がった愛ではないとしたら


それは無意味であり、ばかげたことだ


情熱もなく神に祈っているなら、あなたと神のあいだにはなんの交わりもない


ただ情熱だけが「橋」に「渇き」に、「飢え」になることができる


あなたが渇けば渇くほどますます可能性は大きくなる


渇き果てて、あなたが渇きそのものになり、あなたの全存在が情熱に燃えたならそのときはじめて何かが起こる


その強烈き、その百度の情熱の瞬間に-


なまぬるくならないことだ


人々はなまぬるい生き方をしている


彼らはこれでもなくあれてもない


だから彼らは凡庸なままでいる


あなたが凡庸であることを超えたければ、大いなる情熱の人生を創り出すがいい


あなたのすることが何であれ、情熱的にやるがいい


歌うなら、情熱的に歌いなきい


愛するなら、情熱的に愛しなきい


絵を描くなら、情熱的に描きなさい


話すなら、情熱的に話しなさい


聴くなら、情熱的に聴きなさ い


瞑想するなら、情熱的に瞑想しなさい


そうすれば、あらゆるところであなたは神に触れはじめる


情熱があるところならどこでても


あなたが完全な情熱をもって絵を描けばその絵を描くことが瞑想になる


ほかにどんな瞑想をする必要もない



強烈に情熱的に踊り、踊り手が消えて踊りだけが残るほどになったら、それは瞑想だ


そうなったらほかの瞑想の必要はない


ほかにどこへ行くこともなく、どんなヨーガの姿勢もいらない


踊り手が消えて、踊りだけがある


それこそがヨーガのポーズになる


それは純粋なエネルギー、波動するエネルギーだ


その状態のなかであなたは触れる


なぜその状態のなかでは触れるのだろう?


それは情熱が偉大であるときには自我が死ぬからだ


自我は凡庸なマインドのなかてだけ存在できる


エゴイスティックなのはただ凡庸な人たちだけだ


ほんとうに偉大な人たちはエゴイスティックではない

そんなことはありえない


彼らの生はまったくちがう方向、まったくちがう次元をもつ

それは〈情熱〉という次元だ


あなたは情熱(passion)と慈悲(compassion)というこの二つの言葉を一


気をつけて見たことがあるだろうか



情熱から慈悲へと飛ぶ量子的飛躍がある


だが、その量子的飛躍が起こるのは、あなたが百度にまで沸騰するときだけだ


情熱というかたちで存在するエネルギーが、ある日、慈悲になる


それは同じひとつのエネルギーだ


慈悲は情熱に対立するものではない


慈悲は成長した情熱、開花した情熱だ


情熱が変容して慈悲になる


そのとき水は水蒸気になる


それは情熱の春だ


あなたのすることは何でもするがいい


私は情熱に大いに賛成だ


ただしそのなかに没頭することだ


そのなかに身をまかせることだ」


そのなかに自分を溶解させることだ


そうすればその溶解が救済になる


osho ダイヤモンドスートラより