人生、40年以上歩いてくると、いろんな人にであい、
素晴らしい出逢いもあれば、最低な出逢いもある。
楽しいこと、苦しいこと、悲しい事、怒りを覚えることと
たくさんあるけど、私が今の自分が幸せだと思えるのは、
たぶん私が、いろいろと忘れっぽい性格だからかもしれない。
自分では、根に持つ性格だとずっと思ってきたけど、
意外に1年前の事でさえ、詳細には覚えていない。
人間はいろんなことを忘れていく生き物だというけれど、
特に私は忘れっぽい方かもなと思う。
憎しみや怒りを手放すことはなかなかに難しいけれど
忘れることが出来るのは
ブログに自分が何でそんなに怒っているのかとか、
こんな嫌な事をされたと書き記すことで、
その時に、その思いを手放しているからだと思う。
だから、その時は死ぬほど憎んでも、叫びたい位に怒っても
それ以降は、思い出してぶり返してまで相手を呪う事は無い。
恋愛にかかわらず、人間関係に置いても、それは同じで
私をだましたり、自分の保身のために、嘘をついて
上手くやっていこうとした人は、きっとその先も
同じ様に、周りからも同じ扱いを受けていると思うから。
因果応報ってそういう事なんだよね。
私自身は、憎しみを手放した瞬間から、その人達とは、
私はもう違う人生を歩いていると思う事にしている。
その時にその場所で、どんなにひどい嫌がらせや仕打ちを受けても、
忘れてしまえば、全くその人とは出逢わなかった人生だと
思うことが出来る。
憎しみも1年以上は続かない性格みたいです。
ブログ上でも、言い合いをした人や、ケンカした旧友や
別れた人でも、私が、偶然風の便りを聞くころには、
相手が、左遷されたり、田舎に帰ったり、ひどい人は、死亡してたりと
大変な事になっている人が多い。
「義」:人間として踏まなければならない正しい道
「利をみては義を思う」 孔子
「義を後にし利を先になさば、奪わずんばあかず」 孟子
利益を追求するときには、つねに「義」を念頭においてやれ
法を破れば罰則が待っているのに対し、「義」を踏み外しても罰則はない、ただし「あ
の男は汚い」とか「あの会社はえげつない」と非難されることになる。
やっぱり、義を重んじない人間は、背骨が曲がっているのと同じ事って事だろう。
姿勢を正さず背骨を曲げている人は、病気になるよと私は教わったけどな~。
だから、私が憎しみつづけなくとも、同じ過ちを何度も起こして自滅していく。
破滅していく人間のその後を見届ける必要があろうか。
私は、自分自身は、悩みなく安らかな境地で常にありたい。
だから、憎しみは忘れて手放すのが良い。
そうすれば、確実に自分の行くべき道が見えてくる。
憎しみに捉われ続けることは、憎しみの牢獄に自分自身を閉じ込め続けることと同じ。
牢獄の中からでは、青い空も、風の香りも、人の優しさも感じることはできないだろう。
憎しみから自由になれば、絶対に幸せが待っているから・・恐れず手放そう。