明日は東京大空襲68年目、明後日は東日本大震災2年目。 | 子育てというボランティア

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今朝、テレビをつけたら、明日は68回目の東京大空襲の日だと言っていた。
いつも、この日と終戦記念日には平和を強く願う。
 
父の姉と弟はこの東京大空襲で亡くなり、遺体は両国の横綱公園のそばの
戦災慰霊堂でたくさんの同じく大空襲で亡くなった人の魂とともに眠っている。
 
20代の頃一度祖母に頼まれて、お参りに行ったが、その後高熱を出して倒れたので、
関東に越してきて6年になるけれど、両国や浅草周辺に行けないでいる。
浅草に行くのなら、祖母が生きていたならきっとそこに
あの日の様にお参りしてというだろうから。
 
でも、私の中では、その亡くなった二人の魂は、うちの娘達二人の中に
生まれ変わっていると思うので、亡くなった父母、祖母の為に
自宅の影膳にて、般若心経とお線香と父の大好きだったチョコレートをお供えしておいた。
もちろん主人の祖父も一緒にお水と炊き立てのご飯は毎回お供えしているので、
一緒に、私達の代にまで命をつないでくださっているご先祖様皆様で頂いて下さいと
拝んでおきました。
ブログでも、父や祖母から聞いた10万人の人が亡くなったという東京大空襲の体験談を
私が覚えている部分だけを何度か書いているのですが詳細がいつも曖昧ですいません。
 
東日本大震災から2年。
政権はまた交代して、日本がいろんな方向へ変わっていこうとするのを
大人になったこの40代で見つめている。
父達は東京大空襲で、すべてのものを無くして、
身一つで知り合いを頼り島根へ疎開して借家を借り生き残った家族5人で暮らしていた。
今思うと、祖母の親戚は大阪に住んでいたのに何で祖母は、
大阪に身を寄せなかったのだろうか?と思う。
やっぱり、5人もの人数で、実家に逃げ込むわけにはいかなかったのだろうか。
 
それに大空襲と病気で3人の子を亡くしたのに
大阪の呉服の問屋街で服を仕入れて、田舎の島根に持って行き
行商で商売をして父の姉と弟の3人の子供を育てた祖母は本当に逞しいなと思う。
祖父は病気で、大空襲の前から働ける体ではなかったと聞いています。
なので、娘と息子が亡くなるより自分が亡くなればよかったと言っていたそうです。
 
父も新聞配達をしていたと聞いた。そうやってためたお金で
岩手の大学に行き農学部獣医学科を卒業して獣医師になって
岩手の牧場で牛の獣医をやりながら島根の祖母に仕送りをして、
弟を鳥取大学の土木科?を卒業させ、弟は、国の防災関連の所に勤めていた。
今はもう定年退職して、悠々自適に大阪で住まれているようですが。
父が亡くなってからは交流が無いので、わかりません。
 
その後父は、祖母と弟のいる島根に帰り、初めは長屋で獣医科病院を開業し
私が小学1年の春に建てたお家で獣医として70歳で亡くなるまで暮らしていました。
母の実家のある京都にも家とお墓を買って、祖母が亡くなった後は、
多分老後は母の生まれた京都でお寺巡りをして母とのんびり暮らすことを
夢に描いていただろうなと思うのですが。
父は6年前に脳出血で亡くなり、母も3年前に胃癌で他界しました。
 
戦後の日本、何もかも亡くした父は、さぞかし大変だっただろうと今は思う。
父や祖母から話を聞いたころ、私はまだ10代でその体験の意味さえ深く知らず
ただの祖母や父の昔話だと思っていたから、20代で戦災慰霊堂に行き
その後父や祖母や母が亡くなり初めて、この東京大空襲という歴史の事実を
忘れてはいけないのだと思いました。
 
島根に住んでいた時も長かったので、小学校の修学旅行では
広島の原爆資料館や原爆ドームを見て
大学の卒業旅行で博多ー長崎ー阿蘇ー別府とまわりましたが
長崎でも原爆資料館や一本足の鳥居などを見て回った。
戦争を知らない時代に生まれた私が思うことは、
やっぱり平和への想いだけです。
二度と戦争を起こしてはいけない。やられたらやり返すでは平和を守ることはできないし
人間として人種は違っても、周辺の国々と揉めない様に、政府には
つねに互いの国を尊重してこの戦後復興した美しい日本の国土を
しっかり守っていって欲しいなと思う。
 
明後日で、東日本大震災から2年ですが。
まだまだ人々は立ち直っていないし、被災地も復興はしていないけれど、
東京大空襲で、生まれ育った故郷も財産もすべてを無くした人々も、
戦後自ら復興しました。
すべて無くしても、人は一からやり直せるんです。
希望を無くさず、頑張ってほしいなと思います。