昔、よく本屋で立ち読みをして、よく小さな本を買っていた。
その人の書く文章が当時の自分に生きていく上の生きづらさを緩和する方法論として
私の心の中に入ってきたからだ。
昨日動画を見ていたら、その著者の名前が何回か出てきて、
同じ様にこの動画の主も考えたのだろうと思った。
その動画の主の肩書は書かれていないし、何らかの宗教をやっているわけでなく、
ただ自分の思ったことを話している動画なのだけど
もしかしたら、心理学を学んでいる人か何かなのかもしれない。
その方の持論の中にあった言葉を聞き、先日サファイアさんが言っていた言葉を思い出した。
いじめをする人は、その人自身が傷ついたことがある人で、
そこから立ち直れていないジレンマで、自分より弱者だと思う人をいじめて、
自分の心の持って行きどころにしているのだということ。
先日、噂を流した、張本人のママ友がいるスーパーで、偶然その人を見かけた。
その人は私の方を見て、お客様として丁重に笑顔で接客をしてくれた。
私も大人の対応で、普通に笑顔で、買い物をして行った。
私が思ったことは、もっと出逢い方が違っていたら、
お互い嫌な思いをしなかったかもしれないということ。
出逢った時が悪かったし、その人の傷を誰も癒せないまま
自分を守る為だけに私を悪く言ったのだということ。
でも、彼女はきっと知ったのだろう。私の娘の病気を知り
可哀想な人だと思ったのかもしれない。
彼女の眼から、人を傷つけようとする光線のようなきつい何かが消えていた。
先ほど話した動画の話の中で、その人はこう言う事を言っていた。
いじめられるのが、批判されるのが、嫌だとしても
あなたがあなたである以上批判だけされるわけでも、称賛だけされるわけでもないということ。
ありのままの自分でいようが、表面を取り繕うが、批判する人は批判するのである。
それならば、自分はこういう人間なのだと、ボロボロになっても、自分をさらしながら
生きていく方が、よっぽど信頼に値される人間なのではないのか?
自分の心を開いて生きている人間を好きな人も嫌いな人もいるだろうけども、
好きだと思う人間に出逢えることが素晴らしいのだということ。
どこの誰ともどんな人だともわからない人間を、貶める人はいないだろうけれど、
その孤独を救う人もいないのだと言う事。
変な人、ウザい人、馬鹿じゃない、キチガイ・・・そう言いたい人はいるだろうが
でも面白いという人が出て来なくはないかもね。
私は、ママ友とか、今いる自分のテリトリー内で
自分を排斥する人間を去年1年ですべて締め出した。
そこで、自分を肯定してくれる人間だけと付き合っていきたいと思っている。
もう、自分が誰からも愛されないという人間関係にはうんざりしているから。
素のままの自分でいて、それを肯定的に感じてくれる人がいるならば
これから先は、もっと楽しい未来が待っているはずだ。
いじめを受けて困っている人へのアドバイスとして、
その人が言っていた言葉。
いじめのボールを投げつけられたら、
へらへら笑ったり、おどおどして、痛かったよと下手にやんわり返してはいけない。
さらに相手は強いボールを投げつけて、これでもかとやってくる。
その時の対処法は、そのキャッチしたボールをノーリアクションで他所に投げてしまう事や
さらに強いボールを波動砲のような勢いで打ち返すか、
思いきり自分の体重、もしくは持っているナイフでボールを踏み潰して切り裂いて粉々にしてしまうことだ。
相手は二度と、あなたをいじめようとは思わないだろう。
そうだな。私は、そういう人間だった。
大人になって、へらへらと周りがどう思うかに一喜一憂していたかもしれない。
でも、玉砕でいいじゃないかと思うようになった。
別に捨てても惜しいものがあるわけじゃなし。
何を取り繕う必要があろうかと思う。
私は聖人君子ではない。人の親ではあるけれど、私は私なのだ。
明るくて、前向きで積極的なのが売りだった私が、いったいどこへ行ったのだと思う。
他人がどう思っても構わない。
好きな事をして好きなように生きてやろう。
私らしい私に戻る。それが今年のモットーだろう。
調子が良くても、おちゃらけてても、ノリだけじゃんと言われても、
いいじゃん。
自分自身を型にはめるのには疲れたし、自分はほかの誰かになれるわけでもない。
無駄にいろいろやってみよう。
私を求めてくれる友がいるのならば。そう思う。