入院から三日目の夜。

義理姉が家に戻り、

引っ越しを手伝ってくれた

娘たちが日帰りし、

ホテルにひとりぼっちで

過ごした。


一人でホテルに泊まることは

いつもしていることなので、

大丈夫だが、

外に食事を

食べに出ることも、

ホテルのレストランにも

行く気が起きない。


コンビニで買ったサラダと

おにぎりで軽く食事をして、

お風呂をすませた。


ともかく、落ち着かない。

気持ちがどこにあるのかが、

自分でもわからない。


転院先がまだ決まらないこと。

これから先、

夫の病状がどうなってゆくかも、

何ひとつ考えることが出来ないのだ。


ただ、ひとつ、

落ち着くのは、

自分のスケジュール帳に、

日々に思ったことを

書いている時だけだった。


書いているうちに、

色んな想いが沸き上がってきた。

ホテルのメモ帳に、

夫への手紙を

書き綴っていた。

泣きながら、

書いては足し、

書いては消し。


「いつも一緒、ずっと一緒」

呪文のように、

その言葉が頭の中を

巡っていた。


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今まで、何年も

離れて暮らしていたけれど、

週末帰ってくると、

会社の出来事も、

趣味で出掛けた山のことも、

誰かと飲みに行った話も、

聞かせてもらっていた。


ただ、夫仕事で頭がいっぱいだと、

何も語らないし、

聞いてくれない日もある。

そんな時は、日々の出来事や

伝えないといけないことだけは、

軽く伝えて、

ほっておいた。

私も夫も束縛するのが、

基本的に嫌いなので、

いつの間にか、

夫婦という名の

友達のような間柄になった。


30~40才頃の夫は、

会社の女子と飲み会が

多くて、私は嫉妬に近い

束縛はしていたかもしれない。

夫は、何も隠しだてしないで

話すので、かえって

心配になったりした。


単身赴任が始まった

28年前。

実父母の介護、

一時は犬猫3匹をお世話し、

娘を育てて、

日々、髪振り乱していた

かもしれない。

12年前の

震災後は放射能汚染の

心配をしつつ、

実母の施設にほぼ毎日通い、

娘や孫娘のお世話も

担っていた。

振り返れば、

40代を過ぎる頃から、

二人でじっくり

話し合う時間は

本当に少なかった。


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夫との出会い。

彼とは、

会社の同期生。

入社後すぐの

労働組合の青年部かなにかの

交流会で出会った。


一言二言、

言葉をかわしただけで、

すごく懐かしい気がした。

私が今まで出会った

異性の中では、

断トツに気になる存在だった。

お酒の席では、

饒舌で、皆の注目の的だった。

そして、すごいヤンキー(笑)


酒が入らない素の彼は、

女の子とほぼ話さない。

前の日にすごく

しゃべったのに、不思議?

と、余計に興味が沸いた。


それから、

同期で良くスキーに行ったり、

旅行に行った。

彼が地方組の幹事。

私が東京組の幹事。


そんなご縁で、

結婚するまでの6年半を

同期たちと遊びながら、

恋人のような

友達のような

遠距離恋愛を続けた。


社内恋愛、遠距離恋愛、

スキー…。

昭和末期のトレンド満載。

ヤンキーのお兄ちゃんだった

夫も、少し真面目になり、

会社も辞めたいと言わなく

なっていった。


両方とも結婚願望が

少なかったが、

同期女子が結婚で

退職していく中、

同期会は少なくなっていき、

私たちは、

なんとなく雰囲気で

結婚することになった。


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そんなことを思い出しながら、

限られた時間だけど、

楽しく、笑いながら、

夫と一緒に過ごしたいと

強く願った。


どんなことがあっても、

夫の支えになろう。

最後まで彼の

人生の卒業試験に

つき合おう。


夫への手紙を書き終えた。


4枚の小さなメモに

びっしりと文字が

並んでいた。



つづく。


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