一歩ずつでも確実に進んでいるだろうか?
そんなことを考えながら今日1日が今出来る最高の自分であるように生きていこうと考えたそんな1日でした。
facebookやmixiではお祝いのお言葉も沢山頂きました。
自分は一人ではなく色々周りの人とつながっているなと改めて実感しました。
そんな皆さんに少しでも恩返しできるように自分を高めていきたいと思います。
一歩ずつでも確実に進んでいるだろうか?
そんなことを考えながら今日1日が今出来る最高の自分であるように生きていこうと考えたそんな1日でした。
facebookやmixiではお祝いのお言葉も沢山頂きました。
自分は一人ではなく色々周りの人とつながっているなと改めて実感しました。
そんな皆さんに少しでも恩返しできるように自分を高めていきたいと思います。
過去の苦い経験からなのか、どうも余裕がなくなってくると
どんどんと無意識に自分の殻の中に閉じこもってしまうことがある。
それを放っておくといつの間にか自分がなんだかよくわからない存在になっている。
特に幼少期に自信がなかったこともあり、どうにか苦手な部分を克服しようとしてきた。
そのやり方が問題だったのかもしれない。
それが癖になって無意識に完璧を目指し、良い部分だけで相手に気に入られようとしてきた。
要するに全ての人に気に入られようとしてきた。
相手が嫌な気持ちになるようなことは極力抑えて、
相手のよい部分を相手が出す前に先に気づくといったような、
日本的な美的感覚が自分の中でかなり浸透していたような気がする。
その時の状況毎に判断できればいいが、習慣になっているとこれがそうもいかない。
その習慣が絶対的に正しいという考えになってしまい、それをしたくないという相手にもやらせようとしてしまう。
行き過ぎると、相手をコントロールするような状態になってしまう。
それが本音と建前を生みだしているのではないだろうか。
しかし、よくよく考えれば、親しくなればなるほど自分の悪い部分を出さないといけなくなる。
その時に、よい部分しか出せないのであれば相手は何か裏があると思って不信感を抱くかもしれない。
親しい人ほど本音を話してほしいと思うだろう。
そこで、苦手な部分もオープンにして自分で笑えるくらいの気持ちになれれば相手に隠す必要もない。
その部分になにかと突っ込んでくるような人はそもそも自分には合わない人であるということだろう。
その感覚で全ての人が納得いくまでとやっていたのであれば、いつまで経ってもうまくいかない。
バランスと言うのは全ての人をどこかに合わせるように平均的にするのではなくて、
それぞれ得意な部分を出し合ってバランス良くしていくことなんじゃないかなと思う。
そうやって自分にしかできないようなことをどんどんやっていったほうが
いかに楽しく過ごせるか計り知れない。
どうもここ最近は自分の中の批評家が勢いを増していて、
自分を批評するだけでなく周りの人まで批評していた。
その結果、無理やり自分の思い通りにしようとしていた。
反省です。
どうも頭で何かを考えすぎると批評家がでてしまうようだ。
批評する暇があったら、自分や他人のためにできることに力を使った方がいいなと思った。
今日は、すれ違いの原因になる、視点の違いについて考えてみた。
カメラを持って写真をよく撮る人なら分かると思うが、どんなカメラでもレンズの正面からしか写せない。
もし、被写体の後ろを取りたいなら被写体に後ろを向いてもらうか、動かないものであれば後ろにまわらないと撮ることができない。
前回の記事につながるが、子供の場合はとにかく色んな角度から撮ってみようとする。
だから、一方向だけをみてその人の全てを判断することはない。
子供は残酷だと言われているのは感じたことをそのまま言っているだけであって、その人の全てだと判断して言っているわけではないだろう。
何故ならば、友達の悪口を言っていてもちょっと時間が経つと何事もなかったかのように一緒に遊んでいたりするからだ。
しかし、大人になると表面だけみて判断している人が多い。
もしくは、自分が好きだ嫌いだと思う一部分だけを見て後は関係ないと言う感じになっている。
その一部分だけでその人の全てだと思ってみている。だから、子供が率直に言っていることをその人の全てだと判断して言っているものだと錯覚してしまう。
一度ここからの視点がいいとか悪いいうものが自分の中に出来てしまうと、他のものに対しても同じような視点でみようとする。これを固定観念という。
とにかく何か行動しようという時に何か言い訳して動かない人は、固定観念が多すぎて動けなくなっていることが多い。
例えば、大仏の裏側の写真を撮る場合は裏側に回らないと撮ることができない。
それに関して、動くことができない大仏に後ろ向いてと言うことはないだろう。
しかし、人間相手に後ろを向いてと言って拒否されると怒りがわいてくることがある。
でも、その人が何らかの理由で後ろを向くことが出来ない状態だと知っていれば怒ることはないだろう。
それをきちんと説明せずに「嫌だ」と言うだけだと相手にはその状況が正確には伝わらない。
もしかすると、自分が否定されたように感じるかもしれない。
ここで例えば「私は高所恐怖症で、ここは高いところだから後ろを向いたら怖いから嫌だ」と言われればそれ以上は深入りしないだろう。
そういったことを知らなければ自分は故意にやったことでなくても、相手からすれば無理難題を押し付けられているように感じる。
逆に相手が「今まで長年親友としてやってきたんだからそれくらい知ってるよな」と思っていて「嫌だ」と言った場合でも、そういう機会がなければそれに気づかない事なんていくらでもあるだろう。
それぞれの立場から見れば、悪意がないという前提であれば言っていることは正しい。
しかし、一歩引いてみるとぶつかる原因になっている。
そこでまず、今の自分ができないことを相手が頼もうとしてきたら、今の自分の状況・状態をきちんと伝える必要があるなと思う。それをせずに「それくらい察してくれ」では相手も意気地になってしまうだろう。
それぞれが違う立場による視点で相手の立場を考えずに自分の意見を押し通そうとするからぶつかることになる。
実際にこうしたことは自分が無意識にやっていることを深く考えずに自分ができるんだからその人にもできるだろうと錯覚してしまっていて自分と同じことをさせようとしてしまっていた経験がある。
しかし、相手の状況・状態が自分の状況・状態と同じとは限らない。だから、相手が出来ないと思うことは拒否してくる。
この場合は一歩引いて、相手の立場による視点もみないと相手の状況・状態を理解することはなかなかできないだろう。
そういったことを全て理解出来るかと言えばそうでもないが、ぶつかる回数やそれを収めようとするのにかかる時間は減らすことができるだろう。
そういったことも考慮して一方通行ではない、きちんとした双方向のコミュニケーションをしていかないといけないなと感じた。
少年少女の心ってなんだろうか?
ちょっと自分なりに整理してみる。
少年少女の心は、毎日が違う1日だと感じる心ではないかと思う。
要するに当たり前ではない日常を過ごすということかなと。
この心は大人になると忘れてしまい、毎日が当たり前の連続になってしまう。
実際には当たり前の日常なんかはなくて、前日に起こったことは今日も起こる確率が高いだけであって同じ1日なんてない。それがなんとなく過ごして当たり前のように感じられるだけだと思う。
それで、その少年少女の心は大人になったら持つことができないのか?というとそういうことではない。
所謂一般的な成功者と言われる人はこの心を大人になっても持っている。
そういう人達は大抵目が輝いていて毎日をイキイキと過ごしている。
例え今現在その心を忘れてしまっていても思い出すこともできるだろう。
思い出そうという気持ちが自分から出せれば。