最近自分のペースを乱していたので、それについて考えてみる。



時に勘違いしてしまうけど、

マイペース=自分のペースのこと。

だから人それぞれペースがまるっきり違う。


自分ではない誰かになろうとしていたり、他の人の言うことをそのまま鵜呑みしようとすると、

自分のペースが崩れる。この時はこのペースだという万能なペースはないだろう。


周りから見れば遅いとみえるけど、自分にとっては快適なペース。

周りから見ると早く見えても、自分にとっては快適なペース。


例えば、マラソン選手が馴らしで走っていても、普段走らない人から見ればペースが早いようにみえる。

他の人より作業が遅いけど、淡々と長時間こなす人もいる。

それぞれのスキルや体の状態、成長の度合いによってもペースが変化してくる。


いつも同じペースで行こうと思っていると、その時のペースが自分のペースではないかもしれない。

我々は人間なので、器械のようにずっと同じペースでいけることはない。

(もちろん器械でも、定期的なメンテナンスが必要だから、止める必要がでてくる)


だから、その時々の最適なペース配分をしていければといつも心にとどめたい。

普段何気なくつかっている「ありがとう」と言う言葉。

この言葉の大切さに気づくと何気なく使うことはできなくなるかもしれない。


そもそも「ありがとう」はいつ使うのか?

それは、感謝する時だろう。


でも、感謝していない時でも無理やりつかっていないだろうか?

感謝していない時に「ありがとう」を使うと自分の本音が隠れてしまう。


あるアフリカの部族は、モノを貰う側ではなくあげる時に「ありがとう」を言うらしい。

何故ならば、モノをあげる機会ができるほど恵まれていることに感謝するからだ。

あげるという機会に、モノを貰ってくれる人がいるということに感謝する。


家族や恋人でも、相手がいなければ愛することはできない。愛する機会がない。

相手がいるということは実は当たり前のことではない。

当たり前ではないから、相手に対して色んな事ができる機会が訪れる。

そしていつか、その機会は必ずなくなる。様々な「別れ」によって。


もし、これに対してしてあげるという感覚であれば「ありがとう」は出てこない。

貰う側もいらないモノをもらって「ありがとう」という本当の気持ちはでてくるだろうか?


そのものをくれたという気持ちに対して「ありがとう」を言うことはあるだろう。

しかし、この場合は要らないモノに対しては「ありがとう」はない。


だから、どこに感謝したのか表に出ていないと勘違いを生む可能性がある。

勘違いしたままだと、どんどん要らないものをあげてしまうこともある。


確かに、直接「これはいらないものだ」と言われたら嫌な気持ちになるだろう。

しかし、だからといって言わずにいたら要らないものを沢山もらうようになって、

その人に対する不信感みたいなのが自分の中にわいてしまう。


双方の気持ちを考えればどちらかに偏ることはいい事とは言えない。

そもそも、相手に気持ちよく過ごしてほしいからモノをあげたりするのであって、

相手に不快な感情を抱かせるためにやっていることではないだろう。

それを忘れなければ例え拒否されても構わないと思えるのではないだろうか?



感謝というものは押しつけるものではない。

しかし、同じ輪に入っている時は押しつけてしまうことがよくある。


「親しい仲にも礼儀あり」と言うが、自分は「親しき仲こそ礼儀要る」だと思う。

親しいというのは同じ輪に入っていると言うことなので、距離が近い。

距離が近いからこそ相手の気持ちをきちんと考えないと、身動きがとれなくなる。


現代のいきづらさの原因の一つにこの「輪の中の過干渉」が挙げられると思う。

同じ輪にいるんだから、何をやってもいいだろうという気持ちがでてくる。


しかし、同じ輪に入っていることは誰かに言われて入るものではないので、当たり前のことではない。

だから、一緒の輪に入っていることに感謝の気持ちが出てきてもおかしくない。


しかし、日常が当たり前の連続だと、それが出てこない。

今一度自分を一歩引いてみて、感謝の心を忘れていないか省みる。

それが当たり前ではない日常への一歩かなと思う。



■ このブログを読んでいる方へ


いつもこのブログを読んでいただいてありがとうございます。

色々と悩みが多く自分の原点を探るために記録したいことをつれづれと書いています。

それが、何か皆さんのお役に立てたら幸いです。

ここで何か書こうと思ったことを忘れてしまった・・・。

やはり頭に浮かんだことは直ぐに消えてしまうようだ。


そういうことがないようにメモの習慣もあるんだけど、

たまに書かなかったりして頭のどこかに消えてしまうことがある。


自分の場合は頭で考えることが多いから閃きもそれだけ多い。

だから、メモなどで外に出さないと頭に情報のゴミが沢山残る。


部屋でもPCでも、モノやデータを沢山置きすぎるとちらかる。

整理しないとどこになにを置いたのかわからなくなる。


だから、欲しい時にそれらをすぐに取り出すことができない

そのため「後でいいや」になってしまい、結果「ずっとやらない」につながる。


大切なことは今直ぐにやる。

定期的に整理をする。

実をむすぶまで途中でやめない。

そして、閃きを大切にする。


閃きは一瞬でそれを残せないのはもったいない。

もっと閃きを大事にしようと思う。

ここのところ視点の違いとかいろいろ書いてきたが、

そもそも、物事を最初からポジティブに受け取るようにすればいいような気がしてきた。

そうすれば、視点が固定されずに良い方向に見るようになると思う。


それを勝手にポジティブレシーブという名前をつけてみる。

物事を何でもかんでも良い方向に捉えてしまう。


例えば、コップの中に好きな飲みものが半分あったとする。

それをもう半分しかないと捉えるか、まだ半分残っていると捉えるかによって気分が全く異なる。


ただこれだけだと、無理やり根性だけでポジティブになろうとするので、難しいかもしれない。

禁酒や禁煙など根性だけではなかなか達成できない。


そこで今まで経験してきた良いイメージと無理やりにでも結び付けてしまえばいい。

悪い方向に考えそうになったら一呼吸して、良いイメージを頭に浮かべてしまう。

頭の中では一度に二つの事は考えられない。良いイメージを頭に浮かべている時はネガティブになれない。


イチローが打席に立つとき、ポーズをとっているのは良く見ると思う。

あれはイメージトレーニングで最高の自分をイメージしてそれをいつでも出そうとしている。

それを自分でもやってしまうのだ。


そうすれば、いつの間にかポジティブ人間になっていることだろう。

最近は、一人称がはっきりしない状態で曖昧にしていると危ないなと感じる。

これから書くことは実際に自分で経験したことを元に自分自身への戒めとして書いてみる。



例えば、「~らしいよ」という感じで周りの人が言っていたという状態でずっといると、

自分の意見というものが曖昧になってくる。


自分の中でよく暗黙のWEを使う。

意識していないといつのまにか「我々は~だ」という周りの総意であるような感じになってくる。

そうすると、自分がやりたいことを抑えてしまいなにがやりたいのか分からなくなってくる。


それがずっと続くと、周りの人が良いと言っていたからそれに合わせていたのに

全然自分が幸せにならないじゃないか、と言う気持ちになってしまう。

それが、あいつが悪い、社会が悪い、国が悪いといった、責任転嫁を生みだしてしまう。


実際は、誰かに強制されてやっていることではない。

重要なのは自分がどうするか?だ。


こういうことを書くと、自分がやりたいことをやると周りの人に迷惑がかかるからと思ってしまう。


そこでちょっと考えてみる。

もし自分が相手の立場だったらどうだろうか?

何が何でも倒れるまで我慢させたいとおもうだろうか?


本当は皆が笑顔でいられるほうがいいと思っているのは誰でも一緒なのではないだろうか?

でも、それを自分は大丈夫だからと表に出さずにいたら、

その人が何がやりたいのかや無理しているかどうかは正常に判断できないだろう。


もし、「自分は大丈夫だ」と言ったのであれば、その結果がどうなろうときちんと受け止めないといけないだろう。

自分でそれを選択したのだから。


それが嫌なのであれば、きちんと嫌なことは嫌と言わないと相手には伝わらない。

その結果嫌われたとしてもだ。そこで自分の存在そのものが否定されたと思わない。

ただ、その時の状況において反りが合わなかっただけだ。


何も言わずに全ての人が幸せになれる状況があれば最高だが、現実的にはそうはならない。

だから、それぞれの気持ちや意見を出し合って、その中でバランスが取れた選択肢を取ればいい。


自分自身で周りに合わせるから何でもいいやと言っておきながら、

後で何かが起こってからそれはダメだと言うのは、いかがなものだろうか?


だから、自分の意見と周りの意見はきちんと別々で考えないといけないなと感じる。

その中で共感できる部分を合わせていって、

皆が笑顔になれそうな選択肢を見つければもっと楽しく過ごせるのではないか?