普段何気なくつかっている「ありがとう」と言う言葉。
この言葉の大切さに気づくと何気なく使うことはできなくなるかもしれない。
そもそも「ありがとう」はいつ使うのか?
それは、感謝する時だろう。
でも、感謝していない時でも無理やりつかっていないだろうか?
感謝していない時に「ありがとう」を使うと自分の本音が隠れてしまう。
あるアフリカの部族は、モノを貰う側ではなくあげる時に「ありがとう」を言うらしい。
何故ならば、モノをあげる機会ができるほど恵まれていることに感謝するからだ。
あげるという機会に、モノを貰ってくれる人がいるということに感謝する。
家族や恋人でも、相手がいなければ愛することはできない。愛する機会がない。
相手がいるということは実は当たり前のことではない。
当たり前ではないから、相手に対して色んな事ができる機会が訪れる。
そしていつか、その機会は必ずなくなる。様々な「別れ」によって。
もし、これに対してしてあげるという感覚であれば「ありがとう」は出てこない。
貰う側もいらないモノをもらって「ありがとう」という本当の気持ちはでてくるだろうか?
そのものをくれたという気持ちに対して「ありがとう」を言うことはあるだろう。
しかし、この場合は要らないモノに対しては「ありがとう」はない。
だから、どこに感謝したのか表に出ていないと勘違いを生む可能性がある。
勘違いしたままだと、どんどん要らないものをあげてしまうこともある。
確かに、直接「これはいらないものだ」と言われたら嫌な気持ちになるだろう。
しかし、だからといって言わずにいたら要らないものを沢山もらうようになって、
その人に対する不信感みたいなのが自分の中にわいてしまう。
双方の気持ちを考えればどちらかに偏ることはいい事とは言えない。
そもそも、相手に気持ちよく過ごしてほしいからモノをあげたりするのであって、
相手に不快な感情を抱かせるためにやっていることではないだろう。
それを忘れなければ例え拒否されても構わないと思えるのではないだろうか?
感謝というものは押しつけるものではない。
しかし、同じ輪に入っている時は押しつけてしまうことがよくある。
「親しい仲にも礼儀あり」と言うが、自分は「親しき仲こそ礼儀要る」だと思う。
親しいというのは同じ輪に入っていると言うことなので、距離が近い。
距離が近いからこそ相手の気持ちをきちんと考えないと、身動きがとれなくなる。
現代のいきづらさの原因の一つにこの「輪の中の過干渉」が挙げられると思う。
同じ輪にいるんだから、何をやってもいいだろうという気持ちがでてくる。
しかし、同じ輪に入っていることは誰かに言われて入るものではないので、当たり前のことではない。
だから、一緒の輪に入っていることに感謝の気持ちが出てきてもおかしくない。
しかし、日常が当たり前の連続だと、それが出てこない。
今一度自分を一歩引いてみて、感謝の心を忘れていないか省みる。
それが当たり前ではない日常への一歩かなと思う。
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色々と悩みが多く自分の原点を探るために記録したいことをつれづれと書いています。
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