jw研究生として経験したこと、感じたこと、
忘れかけていた事を思い出しています。


聖書研究生として、
エホバの証人と交わりだして2年ほどの期間、
会衆の方々の信仰心を身近に感じていました。

特に、会館や群れに集まっているときの雰囲気は、
安心感や幸福感を感じられ、
強く惹かれることになりました。




集会で毎回行われている資料を用いた聖書解説は、
簡単な質問と回答の繰り返しで進行しました。

解説内容は、資料に書かれた内容に沿っていて、
回答も資料の中から読み出されていました。


安心感や幸福感を感じながら、
集会に参加をしていたものの、

聖書解説の内容や進行には、暗黙の了解みたいな
雰囲気があり、違和感が消えませんでした。




その違和感は、
心の弱さや信仰心が足りないと思うことで、
正当化しているような研究生でした。


会衆の皆さんとも和やかに交われていたし、
このままの環境が、とても合っているようでした。

ただ、
大学で研究している自分も残したい気持ちもあり、
心は揺れ動いていました。




揺れ動いている自分からすると、
伝道奉仕に全時間を使っている開拓者の姿に、

神の祝福が集まっているようで
羨ましさを感じるほどだったようです。

当時は、そんな考え方へと向かいがちな、
狭い視野の中にいたと思います。

開拓者の脳内には幸せホルモンが満ち満ちていて、
中毒状態になっていたのかも知れませんけど・・・



研究を指導して頂いていた長老へ相談したら、
自分の許容範囲も大切に。との助言から、
私の気持ちは楽になって行きました。

気持ちは大きくバプテスマへ傾きました。
このときは、結構ハイになっていたと思います。

前にも書きましたが、この後、
他の群れの長老との質疑を進める中、
私の答える姿に、揺れる気持ちを感じ取ったのか
バプテスマはNGとなりました。

その長老にとっては質疑マニュアル通りだったと
思いますが、人の気持ちって繊細なもので、
今でも思い出すほどのショックがありました。

私って繊細過ぎ?
長老の言葉は神の言葉なので、
研究生には何も言えません。


気持ちは、上がったり下がったり、
揺れ揺れ状態だったと思います。

会衆の中では、
ずっと期待されていたと思っていた私でしたが、
柵の向こう側にいる気分に変わって行きました。

ちょうど、父の移動で引っ越したので、
新しい会衆で、気持ちも変わるかなと思いました。

新しい会衆では、あまり交わることも出来ず、
前の会衆のような安心感は、
感じられなくなっていました。

人の心って、他愛無いと思われる言葉でも、
大きく傷つくこともあります。

何かに頼り過ぎず、言葉には責任を持って、
よく考えて話す私になりたいと思います。