■管理人 yukari'n からのメッセージ

 

 このサイトの管理人、yukari'nです。サイトをご覧頂いてありがとうございます。

私とスミスは、1986年頃、当時、アスキーネットPCSと言うパソコン通信ネットの、life.oursと言うシグで知り合いました。

 二人とも単なるシグの一員でしたが、 スミスが家の敷地を相続税で物納する?話題を詳細に書いたのがきっかけで親しくなり、
その後もいろいろな質問をして、年の差にも関わらず、毎日のようにネットでお話させていただきました。

 そしてその後、lifeシグでシグオペ選挙時に私がスミスを推薦し、スミスはシグオペ選挙に当選、なんとlifeのシグオペを勤める事になってしまったのです。
 任期はどれくらいだったか憶えていませんが、スミスは公私に渡ってlifeシグの運営に力を注いでくれました。

 そしてアスキーネットのオフ会で会う度に「ユカリンがこの世界にオレを引きずり込んだ責任者だ!」と紹介され、それから何かとお話する仲になったのです。

 

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 ある日、スミスがガンに冒されてることを本人のネット上での発表で知り(この腫瘍日記のはじまり)アスキーのスミスと近しい人間は大パニックになりました。
それから、こんな短い期間でスミスが急逝するとも知らず、それぞれの人柄を反映したスミスとのおつきあいがあらためてはじまりました。

 他の方の投稿はこの日記には掲載していませんが、応援メッセージやお見舞い攻勢など、ちょっとしたアイドルなみに、スミスの周りはすごい騒ぎになってしまいました。

 

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 その時、本当にどのようにスミスに接するべきか、私はいろいろ考えました。
病気になったからと言って、余命が限られてることがわかったからと言って、とってつけたような付き合いをすることにとても疑問があったのです。

 幸い、それまでも、その都度思い残す事のないような付き合いを続けて来れたので、私は何もそれまでと変わらず、その後もスミスとの時間を過ごす事にしました。

 

 

  表紙の写真は、善福寺公園に急逝の3日前に一緒に私の車で散歩に行った時に、私が撮影した写真です。
自分がガンとわかった時に「俺には老後がないのか」とスミスは荒れていましたが、
その時「これが俺の老後なんだなぁ」といろいろ世話する私を嫁のように思ったそうです。
(私は孫のつもりでいたが...)

 その帰りに、 車の中で結構深い話をいろいろして、その時も結構元気そうにしていたのに、
それから3日後に帰らぬ人になるなんて、本当に信じられませんでした。

 現像されたこの写真を見ることもなく、スミスは逝ってしまいました。
スミスのおだやかな生を凝縮したような、本当にいい表情の写真になりました。

 

 私はご家族の方々に本当によくしていただいていて、

スミスが亡くなった時もまず連絡が入り、そのままご自宅に駆けつけました。
お家に戻られた後も、ご家族以外で最初にスミスに会わせて頂いたのも私です。 

 それからもずっと、スミスの死が信じられなくて、受け入れられなくて...
気持ちが整理できないまま過ごしていました。

 その後、生前スミスを訪ねていた人たちもだんだんと数が減り、静かに騒ぎは終わっていきましたが、

私は残された者が取るべき態度はどのようにすべきか、

亡くなったからと言ってそれで終わるもんじゃないだろう、と色々と考えつづけていたのです。

 それは納得がいかないし、そんなものじゃないんじゃないか、とずっとずっと思い続けていました。
病気になった時だけわーっと行って、その後忘れて付き合いもなくなってしまう、と言うようなことだけは、

絶対にしたくありませんでした。

 そして色々な事を考えつづける中で、

それから改めて、私とスミス家の皆さんとの長いお付き合いがはじまりました。 



 そして毎年毎年岩沢家にお訪ねする度に、インターネットに詳しい息子さんと

「スミスが今生きてたら、どんなふうにインターネットを使っただろうね」とよく話すようになりました。

 そして2001年の大晦日、「そうだ、スミスの旅行記をインターネットで公開しようよ!」と言う話になり、
奥様も「雑誌に載った時よりいいものになりそうだわ、楽しみだわ」とおっしゃってくださいました。

 でもそれからが大変でした。何しろワープロ松?の原稿しかなくて、それをコンバートできなかったのです。
テキストファイルがない。
そしてそれをなんと...スミス次男のマーシャル君が、膨大な量の原稿を、

手書きでテキストに打ち直してくれたのです!!

 マーシャルのこの努力には、本当に頭が下がります。ほんとうにありがとう、マーシャル、
君の努力なしには、このサイトは作れなかったよ...。

 彼は一番の功労者です。

 そしてその後長い時間が経ち、家族の皆様と写真を選び、当時の事を思い起こすのも、楽しい作業でした。
サイトのカットアウトは、七回忌の2003,5,15にしよう、とみんなで決めました。

 サイトを作る過程で、何度も何度も、

本当に文章と言うのは、人となりそのもの、なんだなと思い知らされました。


自分の死期を知っても、なおひるまずに、力強く生き抜いた姿とご家族への愛情は、

時間が経った今読んでも、なお人々の胸に訴えかけるものがあると思います。

 当時は雑誌に掲載されましたが、今はインターネットと言う新しいメディアの時代になりました。
もしスミスが生きていたら、必ずホームページを作っていたと思うので、

そのスミスの遺志をかわりに私が継ぎました。

 スミスはこのサイトを気に入ってくれるかな?
なんども「ユカリン、そこはそうじゃないよ」と作りながら言われているような気がしました。 
私も今回の作業で、またスミスに新たに何か与えられた気がします。 

 このサイトを作る事によって、スミスの遺志をこの場所で新しく発信し永遠に伝えて行き、
また「情報を発信する事はメディアの中で新たに生き続ける事」との意志が伝わるように、

さまざまな人にこの日記を読んで頂けたら、と思っています。

 スミスが亡くなった日から、死ぬ意味、生きる意味について7年間色々と考えてきましたが、

これはどのようにスミスとの関係を築いていけば良いのか、のひとつの答えだったのかも知れません。 

 ほんとにありがとう、スミス。

2003/5/15, スミスの七回忌に。 From Yukari'n

 

 

 

 

■スミスの奥様、岩澤正美 様 からのメッセージ

 

 

 

 

■スミスの長男、舞 浜人 様 からのメッセージ

 

 「あっ、和ちゃん間に合わなかったよ~っ!」 

 1996年5月15日夕方、当時勤めていた東京ディズニーランドから、築地の国立がんセンター中央病院に駆け込んだ私を見つけた途端、

叔母が言った父・スミス の死の知らせ・・・。最初、私はその状況を十分に把握できす、正直言って信じ られませんでした。 

 父は定年後もパソコンやインターネットをとことんやりたかった様でしたが、 その願いは叶うことなく、還暦目前で逝ってしまいました。

 考えてみれば、私の幼少時代から父は仕事と趣味(写真とバイクとボーリングと映画・音楽・落語鑑賞)に没頭していて、

週末も満足に遊んではくれませんで した。

  母から聞いた話ですが、父は子供の頃から勉強一筋で、その当時は友達作りをあまり意識してなかったそうです。

それで、子供たち(つまり、私と弟。)には、自由気ままに生きてほしいから、英才教育をしなかったと聞いています。

 (結果、我々は父よりも更に淋しい人生を歩むことになってしまいましたが・・・。(-_-x) 

 けど、父の心は純粋だったと思います。

仕事や趣味に没頭してたとは言え、心と財産のコントロールはしっかりしてたので、

残された遺族である私たちはちゃんとした生活を送ることが出来るのですから、私は父に感謝しています。

  でも、本音を言うと、もっともっと父・・・いや、父ちゃんと語り合う時間が欲しかった。 
  そして今、タクシー連転手として、憧れていた交通業界の仕事で働いている姿を見せたかったなあ…、

という気持ちは今でもあります。


  「スミスの息子・舞 浜 人」として・・・。 

2003/5/6 22:30 記す    舞 浜人こと岩澤和成

 

 

 

 

■スミスの次男、マーシャル 様 からのメッセージ

 

 私はあなたからインターネットという大海原があると教えられ、パソコンという名の船で旅立ちました。 

 あれから6年、私はあなたからもらった船をすて、新しい船で大海原へとこぎ出そうとしています。 
  はてしなき大海原を未熟な私がわたりあるくのを、遠い天国から見守って下さい。

 

2003/5/6  マーシャル

 

 

 

 

 

 父の死後、Yu******さんからノート閉鎖の提案がありましたが、これについてはお断りしました。というのも、父が亡くなってから直ちにノートを閉鎖するのは、父とみなさんの縁を一瞬にしてバッサリ切ってしまうものだという、強い不満があったからです。

 

 また、通夜(1996.5.15)が終わったあと、ご参列くださった方々に「腫瘍日記5冊目はしばらく残しておきます。」とあいさつしたもんですから……。

 

 というわけで、このノートはしばらく残しておきます。1996年3月から亡くなった日まで、思い出に残ることがありましたら、このノートに書き込んでいただきたいと思います。

 


 


 

   「スミスの腫瘍日記」-完-

 

 5月25日土曜日 晴れ、やや暑い

 

 今日は、ボクの60回目の誕生日、還暦だ。やったぁ!ボクは50台で死ななかった…………。

 

 ……もしも、父があの日(5/15)に旅立たなければ、きっとこんなレスポンスを書いていたに違いありません。

 

 母は今日、告別式に使った喪服を静かに遺影の前でたたんでいました。

 弟は、立て続けにやってきたセールスの追い返しに追われていました。
祖母は、持病のぜんそくで日増しに体力が衰え、辛い日々を送っています。

 

 そして私は……、ようやくPCの中のログやメールを片付け、香典返しのリストを作っている最中です。何とか今日中にかたずけないと……。

 

 今夜は、父は中華料理が大好きだったので、告別式と荼毘に付き合ってくれた友人S君と一緒に、二人で「追悼Birthdayディナー」をしようと思います……。

 大変悲しいお知らせをしなければなりません。

 

 皆様に親しまれてきた、私の父 pcs00212・友人スミス こと岩澤弘恭は、本日5月15日午後5時20分、私の母・正美に見守られて、静かにこの世を去りました。

 

 今日まで、皆さんにたくさんお励ましのメッセージや、お見舞いなどしていただき、家族一同心から感謝しております。

 

 なお、通夜・告別式等につきましては、改めてご連絡致します。


              取り急ぎ、ご報告させて頂きます。

 

                   舞 浜人

 5月14日火曜日、がんセンター1046病室、曇

 

 いん*さん、「チンする」のは、「湯沸し場」なんです。例のタバコを吸いに通う「面会室」は、その「湯沸し場」の奥にあります。ボクの部屋から近いんです。「湯沸し場」には、電子レンジ1台、オーブントースター(パン焼き専用、魚などは禁止と書いてある)1台、電気ポッ
ト2本、番茶が入ったマホービンが2本、割りに大きい浄水器が1台あります。

 

 ボクは、3月の手術以後、冷たいものや泡が出るものは、怖いと思うようになりました。その際たるものはビールです。病気になる前は、あんなに好きだったのに、チューリッヒみたいに、ビールがさかんなところにも行ったのに、ぜんぜん欲しいとおもいませんでした。カミサンが注文したのを、一口飲ませてもらいましたが、うまいとおもいませんでした。

 

 お昼ごろ、cha*******さんが見舞いによってくれました。病院食を食べながらでしたが、1時間近くお話ができました。アスキーネット育ちでも、ボクラみたいに、よそのパソコン通信や、インターネットのニューズ・グループになじめない旧人類は困ったものだ、と嘆きあいました。午後はT.T.***さんが来てくれることになっています。

 

 病院食といえば、いままでぜんぜん書きませんでした。きのうの昼からでした。昼は、ヒラメのカレー焼き、フキと高野豆腐、大根の煮付け菜のゴマ和え、グレープフルーツ半切り、牛乳200ミリ。夜は、茶碗蒸し、豚肉の付け焼き、じゃがいも煮、カブの塩もみ。今朝は、大根の味噌汁肉のいなり煮、(皮が油揚げのしゅうまいみたいなもの)、丸美屋のたらこふりかけ、おひたし、。さっきの昼は、山菜そば、春巻き、梅肉添え、バナナ、牛乳。この昼がもっともまずかった。そばはのびてたし、春巻きは、ボクみたいに、黄疸で油脂類の消化が出来ない人は半分しか食べられないし、梅肉添えは口に合わなかった、バナナは食べた。牛乳は空腹に備えて備蓄した。いつもの半食残しはせずに、残ったものは下げてしまった。cha*******さんが下げてくれた。

 

 半食残しというのは、出てくる食事を半分だけ食べて、残りは、中間の時間に食べるのである。手術後、量が食べられず、すぐお腹が空く、といったら、看護婦さんが、そうするといい、といってくれたから、実行している方式である。

 5月14日火曜日、がんセンター1046病室、曇り

 

 「個室ですから、就寝起床などは、ご自分のペースでいいんですよ」と、いわれたが、病院標準の21時~6時に合わせることにした。

 

 ここの夜景はなかなかよろしい。正面は、月島や晴海であろう、右にベイブリッジがグリーンの電飾に輝く。左は聖路加タワーを中心としたリバーサイドのマンション群。

 

 昨夜は、20時30分に肝臓のクスリや睡眠薬などを飲み、パジャマに着替えた後、排便をすませておく。21時10分、インダシン50ミリグラム(痛み止め座薬)を挿入してもらう。自分で入れるよりずっとラクで、病みつきになりそう。21時15分に就寝、ヘッドホンをつけ、「愛の妙薬」第2幕を聞くが、イヤホンとちがって寝返りが打てない。至急、スピーカーを取り寄せないと。うまいぐあいに、数秒で眠ってしまう。

 

 22時55分ごろ、強い空腹感で目覚める。牛乳250ミリ、チョコレートパン1コでも足りない。登山用ゼリー状非常食(これは Kuni.Tさんに教わった)をチューブからすする。すぐ眠れた。午前3時5分、痛みで目が覚める。座薬挿入に備えて排便中に看護婦が来る。室内灯をつけると見に来るらしい。「トイレです。痛くて目が覚めたので、座薬をお願いします。というと、すぐ挿入に来てくれた。インダシン50ミリグラム、すぐ眠れた。午前6時リモコンにさわったらしく、突如「愛の妙薬」が鳴り出して目覚める。すぐ止めて、ヘッドホンを外す。また眠ってしまう。午前7時、自然に目覚める。

 

 朝、主治医が様子を見にくる。毎晩1時半ごろまで起きている生活をしていてにしては、ゆうべの眠り具合は大成功だったと、上記の顛末を報告する。あなたのガンの状況では、そのくらいの痛みですんでいるならよいほうです。、といわれる。

 

 採血、朝食、食後のクスリ、血液凝固検査、排便、痛み止めの座薬(インテバン25ミリ)、体重測定など、結構いそがしい。その合間には、タバコのために、「面会室」にも通う。トイレ掃除、くずかごの交換など、サービスの訪問も多い。

 

 午後1時半ごろ回診がある予定。午後6時には、手術前の説明の予定。配偶者ともだから、「3者面談」である。

 5月13日、がんセンター1046病室、深夜23時

 

 23時少し前、猛烈な空腹感で目覚める。これは予想できたことだから、17:30の夕食を半分食べ、残り半分を、20:20にしたし、菓子パン2個、牛乳小パック2個を買っておいたのだが、以外に早く腹が減ってしまった。

 

 チョコレートパン1コとチンした牛乳を飲む。まだ足りない気分残ったアンパンともう一本の牛乳も飲むべきか迷う。なにしろこれが最後の食料だからだ。

 5月13日月曜日、がんセンター1046病室、晴れのち曇り午後夕立

 

 明日、火曜日の予定。午前7時ごろ採血。午前中の比較的早い時間に、2回臨床検査部血液検査室で血液凝固検査。

 

 午後6時、手術担当の奥坂先生から、ボクとカミサンに手術の説明がある。

 5月13日月曜日、がんセンター1046病室、晴れのち曇午後夕立

 

 前のレポートの一部訂正、騒音の発生源は、窓のすぐ下で地下鉄(12号線か)の工事をしているためらしい。なお、ボクの病室は面していないから助かるが、隣のビルも工事中だとか。

 

 PTCDの手術は、水曜日か木曜日の予定とのこと。しめた、明日は遊べる。つまり病室を覗いて見たい人があれば、明日が最適日だということになる。

 

 自分の病名をついつい忘れてしまうから、主治医の先生に書いてもらう。「平滑筋肉腫、小腸原発」というのが無難な診断だという。ヘイカツキンニクシュと何回か唱えてみる。これが抗ガン剤の苦手なガンなもんだから、例の10分の1以下、という確率になってしまうんだそうで、その説明をよい機会だとおもって「例の抗ガン剤の件は、結論を先送りにしてきましたが『患者本人の意思で、辞退させていただきたい』ということにしたい」と申し上げた。

 

 ボクは、駆け出しのジャーナリストではありません。いつぞやの整形外科の先生のお話は、10人近い医師に質問して、裏付けをとらせていただきました。その答えのうち、両極端なのをオミットしてみると、あの説明が、いかにバランスよく、いかに丁寧な説明であったか、あらためて感謝しています。前の病院でも一応のデメリット説明はありましたが、いまからおもえば、患者が十分判断できるレベルの情報ではありませんでした。「では、次の月曜日から、おクスリの点滴ができるように準備しておきますから、、がんばってください」と、かなり一方的に抗ガン剤の方向にすすんでいったのです。『自分の意思で』と辞退できたこと自体を、とても感謝しています、といった。

 

 ガンからの出血は、ごく少量だが、慢性的に続いており、疲れやすいとか、無気力感などは、貧血のせいである、入院中に一度輸血しておきましょう、それで多少は不快感が減ると期待できます、といわれた。

 

 痛み止めの座薬については、痛みが不定期になってきたことから、現在の25ミリ2本/日を、6時間間隔で定期使用するため、25ミリ4本/日にしてもらう。それも挿入は看護婦さんがしてくれる、とのことで、さっき第1回目を頼んでみたが、自分でするのよりだいぶラクである。助かった。前もって痛み止めを入れておけば、痛みによるエネルギーのロスが少なくなるにちがいない。もし、夜中に痛みで目覚めるようなら、就寝前の分は50ミリのにしてもらおう。

 5月12日 日曜日 晴れ、やや寒い

 

 体温調節機能がうまく働いていないから、今日あたりの陽気では、寒く感じる。いよいよ明日は入院である。 TP220 の整備だけは、やっと終えた。それにしても交流電源が一つしか動かないから、高速充電器をを使っているときは、本体を切らねばならない。

 

 午後3時に、駆け込み見舞客が二人来る予定である。ユカ**とDai*****君だ。彼は、住まいも仕事も茨城だから、このためだけに東京に来てくれるのである。ありがたいことである。その時間帯に体調がよくあってほしいと祈る。

 

 遅い朝食を終えて、7錠ほどのクスリを飲むと、同じ姿勢に疲れて、2階の自分の部屋に上がろうとしたとき、玄関のブザーが鳴った。たまたま玄関の前にいたから、ボクが出た。昨夜2度も痛んだから、若干機嫌が悪い。

 

訪問者「お宅は、いつから衛星放送を受信していますか」
ボク「4月からです」
訪問者「受信料は、半年払いですか」
ボク「二か月ごとですが、あなたには関係ないでしょう」
訪問者「私は、NHKの集金人です」


ボク「そう見えたから、申し上げたので、ボクが払っているのは他社の受信料です」
訪問者「NHKには、まだ払っていただいていないのですね」
ボク「NHKの衛星放送の受信機は持っていませんから」
訪問者「では、屋根の上のアンテナは何ですか」
ボク「あれがNHKの衛星放送のアンテナに見えるのでしたら別の方をよこしてください」


ボクは「CSテレビではありません。NHKでもありません。あなたは先月もおいでになって、おなじ質問をなさった。お顔はすでに存じ上げています。ですから、そのへんの区別がつかない方なんでしょう。こんどから、そういう見分けのつく方をうちにまわして下さい」


訪問者「いや、どうも、失礼しました」

 

 我ながら意地の悪い対応をしたもんだ、とおもう。だが、もしかしたら、ニブイ集金人がいてさ、NHKの衛星放送の受信料を、なんていってきたらカモだね、と家中で、いいあってい
たところへ、まるで絵にかいたように、先月この男があらわれた。そんときは、もっとていねいに説明したんだ。その同じ男が、しかもボクの機嫌のわるいときに現われたんだ。ごめん、と心の中で謝っておく。

 

 入院する前にと、同僚に電話して、Niterm、FileVisor、秀丸エディタなどがあるフォーラムとライブラリ番号、ソフト番号、などを教えておく。

 

 そして、この日記を書く。これで午前中のエネルギーはおしまいである。本当は、商店街にいって、最近の雑誌などを買いたかったんだが、外出は自転車でも疲れる。