5月11日土曜日 晴、暖かい

 

 このところ痛みの時刻が変わったらしい。きのうは午後5時すぎに痛み、5時15分くらいに座薬を入れた。

 

 今日は、午前6時に痛みで目を覚まし、坐薬を使った。そして、いま、きのうとほぼ同じ時刻(午後5時すぎ)に痛むきざしを感じた。きのうよりちょっと早く座薬を入れた。つまり、この書き込みは、痛みをまぎらわせるための作業でもあるわけである、ただし、坐薬は、寝る前にも1コ使うから、これでは1日2コのペースではなくなりつつある。

 

 わるいことばかりではない。痛んだあとは、比較的気分がいいことがよくある。ゆうべがそうだった。めずらしく、腰のだるさがなく、平気で椅子に腰をかけていられた。これ幸いと、茶の間に椅子を持ち込んで、あちこちに「月曜日に入院しますからよろしく」と触れ回った。親類、同僚、がんセンターへの転院の仕掛人の先輩、そして、30年以上続いているペンフレンドの「ノ*」。彼女の東芝ルポは型が古すぎて、このノートを読ませられないのが残念である。パソコン通信なんて、つきあいが増えそうで、わずらわしいという。あんなに筆力がある人が惜しいとおもう。

 

 昼すぎ、「師*」の店に電話して、まちがえて 220Vに突っ込み、ウィーンでダメにしてしまった ThinkPad 220の交流電源やら、内蔵用の充電装置の、修理や部品交換の手配をたのんだ。交流電源は、3コ中1コ残っているし、急速充電器も一つあるが、今回入院ともなると、不便この上もない。いっそ、アキアでも買ってやろうか、とも思わないでもないが、病院から発注しても、各種ソフトのインストールができない。短期で退院するやも知れず、まあいいや。 TP220 の本体が2台とも健在なのをもってよしとしよう。

 

 などと書いているうちに、痛みがだいぶやわらいできた。しめしめ。意地張らずに早めに坐薬を使おう。願わくば、ゆうべみたいに、今夜も気分がいいとよいのだが。

【東京発、スミス第22信】

(欧州旅行記、4月21日日曜日、パリ晴れ)

 

 シテ島を小さく回って、花市場、最高裁、サントシャペルなどを見せる。サントシャペル、トルコの皇帝から買い取ったキリストの冠をおさめるために、ルイ9世が13世紀に建てたゴシック様式の教会で、ステンドグラスのすばらしさはパリ一番だと説明を受ける。

 

 ノートルダム寺院の正面に出る。運よく、近い角に駐車できた。説明が長そうだから、用意した折りたたみいすを持って下車する。はたせるかな、外壁のレリーフ、その中の聖人、三つの門、歴史に残る大ミサの数々、など、約10分かかった。ここでミサを見学しろ、といって10分くれた。団体はダメだが、観光客が三々五々入るぶんには、うしろと、左右のステンドグラスの下は入れるし、祭壇の真横に近いあたりまで行ける。オルガンと合唱の音、観光客のカメラのフラッシュ、数々のステンドグラス、その脇の大きな宗教画。歩くのがつらいから、5分で切り上げて、残った時間は、ワゴン車の近くの歩道のふちに折りたたみ椅子を置き、足を車道に投げ出してタバコを吸った。妻は近くのお土産物の店をのぞく。絵はがき売りが何人かくる。「ノン・メルシ」

 

 ほかの観光仲間も戻ってくる。いままで、ボクと次男が助手席、妻は2列目に乗っていた。我々は3列目に座って、1列目をカップルに譲る。発車は11時5分前くらいだった。アルコル橋を渡って市役所前。リヴォリ通りで左折してシャトレ広場。ここで左折。シャンジュ橋で再びシテ島へ。橋の上でコンシェルジェリーの説明。革命のときは牢獄に使われ、マリー・アントワネットもここで獄中にあり、現在は革命博物館でギロチンも見られる。外壁の大時計は14世紀のもので、現在も動いている、という。おもわず腕時計と見くらべたが、合っていた。

 

 右折してセーヌ川に沿って走る。対岸の下側の道は、マラソンの大きなグループが走っている。このマラソンは、アトランタ・オリンピックに選手選考を兼ねている。ポン・ヌフの手前
で徐行。パリで一番古い橋なのに「新橋」とは、の説明。いま修復中で足場とネットで覆ってある。4年前、なぜかこの橋は何回も渡ったものだ。左折してアンリ4世の銅像、左岸に渡って右折。川に沿って下流に向かう。左岸の建物、ヴォルテールホテルとか、オルセー美術館とかの説明。

 

テルトル広場

 

 ブルボン宮(国会課員)の前で右折、右岸に渡ればコンコルド広場、オベリスク。ルイ16世などが処刑された広場。半周してからシャンゼリゼ通りに入る。エトワールの凱旋門に向かって、手前が公園、奥半分がシャンゼリゼの商店街になる。今日は、パリマラソンにともなう交通規制のせいだろう、いつもより空いている。「運転地獄のロータリー」エトワール広場も滑らかに自動車が流れている。

 





 16区の高級アパート群を抜けながら、シャイヨー宮に向かう。もちろんエッフェル塔を眺めるためである。ワゴン車のおかげで、観光バスなどよりずっと近いところに駐車できる。写真撮影とトイレのために休憩。あてにしていた地下鉄のトイレはカギがかかっていた。アランは、立ち小便をしなさい、という。歩けますか、私が人から見えないところを案内します、といって肩を貸してくれる。さして歩かないうちに、自動車が二重に駐車しているところがあり、それらの自動車に隠れてシャイヨー宮に向かって小便した。このとき、自分の尿がまっ黄色なことに気づいた。自分が黄疸を意識したのは、これが最初だった。
 
 

 5月10日金曜日 晴れ、暖かい

 

 午前中、NiftyのIDに宛てて、雁* *さん(知る人ぞ知るラジオ博士である)に祝誕メールを書く。Niftyだと、ボクがガンであることから書かないとならない。これで午前中のエネルギーが切れてしまって、充電のため休憩してたらもう昼食。

 

 1時半ころ、国立がんセンター中央病院の入院管理から電話があり、お申し込みいただいていた病室が空きました、13日に月曜日の午前9時半から10時のあいだに入院してください、とのこと。きのう主治医から「病室の確保が先決です、空いたという電話があったら、私に相談したりせずに、すぐに入院しておいてください」といわれている。当然のこととして受ける。

 

 ここの病室構成は、次のようになっている。

            差額     室数
   一般病室       0円     
   個室A     43.000円     2室
   個室B     38.000円    24室
   個室C     33.000円     2室
   個室D     28.000円     2室
   個室E     23.000円     2室

つまり、個室の「最多価格帯」は33,000円である。ボクは、3月26日に病室予約をしたとき、希望順位を、E、D、C、一般の順につけておいたのだが、Dに当たったらしい。「最多価格
帯」にならずに、5千円浮いた、と喜ぶべきなのか。

 

 それにしても、高い。民間の病院なら1万円そこそこの「個室」だってあるぞ。「国立」が必ずしも安くない例は、ほかにも知っているから、「国立のクセに!」とはいわないが、高い。

 

 というわけで、「黄疸の治療のため」3日後に入院します。

 

 5月9日木曜日 雨

 

 築地の国立がんセンター中央病院へ行く。朝9時の予約である。例によって、荻窪駅まで次男に送ってもらう。先月の11日依頼だから、これまた1ヶ月ぶりになる。いままでだと、霞ヶ関駅で日比谷駅に乗り換えて、東銀座の東急ホテル側の出口から歩いたのだが、最近の体力の衰えや雨なこともあって、丸ノ内線のまま銀座で降り、数寄屋橋からタクシーで向かう。

 

 チェックインをすませてから、pcs26***(も)、昔のMH*だ、彼との約束で、彼のPHSに連絡する。今の彼の仕事場が病院のすぐそばなのだ。いまや立っていることが一番の苦手になってしまったボクは、公衆電話がつらい。この電話もカミサンに代行してもらう。残念なことに、彼はそのとき築地から新宿に移動中だそうで、今日はムリかもしれない、とのこと。

 

 30分ほどで診察の順番がくる。無事旅行を終えたことのお礼、先生にいただいた患者紹介状が、いろいろ役に立ったこと、知り合いの医師が、あれを読んで、「医師のための英文手紙の本に載っているのよりも名文だ」と言っていたことなどを伝えた。

 

 さて、このところの病状だが、旅行前から兆しが見えてきた黄疸の症状がますますすすんでいること、排便の変化、尿の色の変化などを報告する。すぐ、エコーで胆嚢や肝臓の状況を見てもらう。胆汁の流れが不良で、これの手当てを優先させる、といわれる。ふつうは、胆汁を排出する管を埋め込み、腰に胆汁をためるバッグをつける生活になる、という説明を受ける。もう一つ、内視鏡を十二指腸よりもっと先まで入れて、それで肝臓に圧力をかける方法もあるが、とおっしゃって、内視鏡の専門の先生と電話で相談の結果、ボクの場合はむつかしい、という結論のようであった。

 

 来週の火曜日まで、変化を待ちましょう、自然におさまる場合もありますし、便の様子では、それも期待できそうにもおもえますから、とのこと。

 

 でも、もし、病院側から病室が開いた、という連絡があったら、ためらわずに入院してしまってください、ともいわれる。いままでの整腸剤や、痛み止めのクスリにくわえて、肝臓のクスリ、胆汁を出すクスリ、睡眠薬などを追加してもらう。

 

 MH*にまた電話する。「電波の届かない地域におられるか、電源を切って……」だったとのこと。今日はあきらめる。

 

 帰りも数寄屋橋までタクシー。長男に電話して荻窪駅まで迎えにきてもらう。その車で、善福寺のホームセンター「タントム」に寄る。予想される歩行困難に備えて(腰を痛めている母のためにも)、トイレに手すりをつけようということで、その材料を買うためである。ボクは車の中で待つ。階下のスーパー「いなげや」にも寄って、昼食にいなりずしなどを買ってもらう。

 



どうやら、入院が近いらしい。
また、その準備をせねば。
 

=お帰り!父ちゃん!!= (息子の5月3日)
 
 5月3日午前4時50分、2つの目覚まし時計の音で目覚めた私……。
いよいよ帰って来るんだなぁ、どうか無事で……と祈りつつ、出発の仕度をした。

 

 5時20分、成田フライトインフォメーションにSU575便は定刻に成田に着くか問い合わせたところ、「定刻である」との返事。乗客が病人なので、車椅子を手配して欲しいことを話すと、「直接、アエロフロート成田オフィスへ電話して欲しいのだが、オフィスの始業は8時からです」という答えが返ってきた。とりあえず、そのオフィスの電話番号を教えてもらい、カバンに必要なものを詰めて車に向かう。

 

 5時40分、玄関のシャッターを閉めて、我が家の家宝(?)トッポに乗り込み出発。早稲田通り、外苑東通り、靖国通り、白山通り、内堀通りを経て福住ランプから首都高9号線・湾岸線に入ろうとしたが……、

 

          『葛西出口 渋滞3Km』

 

 しまった~っ、我が社(TDLのことね)へのゲストのこと忘れてたぁ。

 

首都高を諦め、隅田川大橋を渡って、葛西橋通りへ。このまま直進すると営団地下鉄東西線をくぐり、浦安市外を横断するやなぎ通りに接続。浦安ロータリー(新浦安駅入口)で左に曲がると、湾岸道路(国道357号)を走るのだが、またまた予想出来なかったアクシデントが……。

 

 首都高湾岸線・千鳥町ランプから入ると、次は湾岸市川・東関道の起点であり、僅か数キロで700円ボッタクられる結果になるので、そのまま一般道を走った。

 

そして湾岸市川。さぁ東関道へ飛び込もう……と思ったら、なななな何と、

 

 

      『東関道・湾岸市川-宮野木JCT 渋滞中』

 

ドッシェ~ッ!!!、何でこんなことがと思い、AM1620KHzの交通情報ラジオを聞いてみると、この渋滞は木更津・君津方面までつながっているとか。どうやら、潮干狩りなどの行楽目的であろう。これは正直言ってまいった。

 

 しかたがないので、まだ流れが順調な一般道を引き続き走る。船橋競馬場手前のららぽーと交差点で左折。腹が減ったので右手にあったMcDonald'sへと行こうしたら開店前だった。Oh my god!

 

 京成船橋競馬場前駅で右折し、国道14号線をひたすら走っていると、右手にミニストップを発見。コーヒーを注文。このときすでに時刻は8時05分過ぎ。成田へはアエロフロートが先か、それともトッポが先か・・?

 

波乱万丈の成田空港への旅、成田はまだ先……。

 

 

 コーヒーを飲み、トイレを済ませて再び発車。ついに、東関道を諦めた私は、遅刻を覚悟し、県道経由で成田を目指すことにした。

 

 東関道・幕張IC下で県道57号線に入る。途中、京葉道路・武石ICオーバークロスするが、京葉道路も東関道同様ぎっしりの大渋滞。一発でや~めた……。

 

 県道71号に入ってしばらくしたところで、東関道をオーバークロス。ややっ、スムースに流れているではないか。というわけで、千葉北ICから入ることにした。
 

 その前に、開店前のパチンコ屋の前にカード公衆電話を見つけ、先程のアエロフロート成田オフィスに、到着時の車椅子の手配を依頼したのだが、「到着1時間前のため成功するかどうかは、微妙です」という返事。それならば止むをえないので、お願いしたいと私は言った。

 

 千葉北ICから私はアクセル全開し、時速130Kmというトッポにしては驚異的なスピードで成田空港を目指した。遅れを取り戻さねば……。

 

 東関道は片側3車線。ほとんど中央の走行車線か、右側の追い越し車線を走行した。途中背後にロ(Pi------)スや、メ(Pi--------)ツが見えるとさっさと道を譲り、またもとの車線に戻ることもした。急ぐとはいえ、馬力の高い車とは比べものになりませんからねえ……。

 

 また、普段はアニメ音楽を聞きながら運転するのだが、このときばかりは父のことで頭がいっぱい。ただひたすらハンドルをしっかり握り、前方をよく見て、アクセルを調整するのだけで精一杯であったのだった。

 

 猛ダッシュで走ること30分、成田空港第2ビルにやっと到着した。時刻は9時20分、すべり込みセーフであった。

 

 トッポを地下駐車場に止め、到着ロビーに向かう。連休中ではあったが、混雑ピークの谷間だったため、ガラーンとしていて拍子抜けの状態だった。

 

 さて、電光表示板でSU575(定刻は9:40)の到着状況を見ると、「遅延・9:41」の表示、ほう、1分でも遅延の知らせをしてくれるのかと感心した私。しかし、9:41がいつの間にか9:46に変わったかと思うと、トイレに行っている間に9:55に変わり、さらにジュースを買いに行っている間に、10:06になってしまったのだった。まぁ、滑走路が1つしかないから、しゃあないか……。

 

 待つこと30分、ロシア人クルーに続いて車椅子に乗った父、まわりに母と弟の姿が見えた。無事帰国!!。ハァ~まる2週間ぶりの再会である。

 

「お帰り!父ちゃん、母さん、○○(次男)。本当に無事でよかったよ(T_T)。」ただ、父の目の色が黄色くなっていたのが気になった……。

 

車椅子のほうは、無事クリアできたようである。エアバスの出入り口で準備されていたそうだ。また、入国審査や税関もクルー用のをとおったので大変スムースに済んだとのこと。

 

 喜びも束の間、早速トッポを駐車場から出し、予め電話で予約していた車椅子・VIP用の乗降口に横付けし、荷物を積み込み、父を乗せて一路東京へ帰宅の徒についた。母と弟は、別行動をとり、京成スカイライナーを利用。日暮里経由で帰って行った。

 

帰り道は、東関道から首都高湾岸線を、時速80Km前後のスピードで中野の自宅を目指した。父にあまり刺激を与えてはならないための配慮である。

 

帰る途中、父が何か食べたいといってきた。車は、大混雑のTDL脇を過ぎ新木場を走っていた。そこで最近オープンした『湾座有明』へ行くことにした

 

 しかし、サンケイリビングで隣の国際展示場でのイベントと一緒に紹介されていたため館内は大混雑。それでも、奥にあったそば屋を見つけて、父はそば一皿たいらげたのだった。

 

 久々に家族5人がそろった我が家。この2週間、家族の旅行や父の容態ももちろん心配だったが、一緒に留守番していた祖母がちょっとボケたり、大きなボリュームで、何度も咳き込んだりの繰り返しだったもんだから、これでもし、あと少し旅行期間が長かったら、きっと自分の精神もめちゃくちゃになり、ノイローゼになっていたかも……。

 

 多分、こんな大きな旅行は今後は無理かもしれない。けれど、私は最後まで、父の望みは出来るだけ応えていきたいと思う。

 

 5月8日水曜日 曇一時小雨

 

 約一か月ぶりに勤め先の編集部にゆく。無事旅行が終わったことの挨拶である。長男が有給休暇中で、運転してくれる。きのうの連休明けに行くべきところだが、きのうは編集会議だった。今日にしたおかげで、端午の節句のお茶会に顔を出せた。ボクの勤め先では、桃の節句は女性が男性を、端午の節句は男性が女性を、ささやかなお茶会を開いて招待するならわしがある。端午の節句は国民の祝日だから、今日あたりになってしまうのである。

 

 荷物が一杯で、お土産は、唯一、会社の仲間宛にだけ買って帰った。ウィーンで買ったチョコレート4箱である。水曜日のおやつに、自分もいっしょに食べるつもりだったが、節句の会ではしかたがない。

 

 着いてすぐ、礼儀だから、社長、編集長、副編集長などの我が侭のお詫びと、お礼を述べる。4月分の月給をもらう。仕事をしていないのにと、チトうしろめたい気持ちだが、36年間働いてきた「退職金」を、いま月賦でもらっているのだ、と自分にいいきかせる。

 

 2時ごろ着いて、3時のお茶会に出て、4時ごろ、辞した。3階にも上がって、自分ではほとんど使うことがなく編集部の仲間に寄付してしまった P5-166 のマシンに触ってみる。せめてものおもいに、\USR\IWA\ に、「スミスの腫瘍日記」をはじめとするボクを励ましてくださったノートの数々のログを入れておいた。念のため、同じ内容を 2DD720 のフロッピーにして置いてきた。

 

 節句の会で、旅行中のエピソードなどを少ししゃべる。用意していった旅行の写真は、見せる時間がなく、ごく一部の人々にだけ見てもらった。ウィーン空港の免税品店で買ったオーストリアのタバコを1カートン持っていった。タバコ人口は減っていまやボクを数えなければ5人と思ってたのだが、数え落としたのが一人いて、2箱の人と、1箱の人ができてしまった。予備を持って行くべきであった。

 

 帰り道、急に腹が減った。減ったままにしておくと痛む危険がある。ちょうどヨドバシカメラによる予定があったから、新宿で食うことにした。運よくパーキングメータに空きをみつけ、駐車したところに近い吉野家で牛どんをたべた。「並」一杯に玉子をとる。息子が「大盛り」を食べ終わったころ、ボクはやっと半分であった。それでも8割近くを残した。

 

 ヨドバシカメラへは、長男に言ってもらい、ボクは車に残った。ヘッドホン、マイクロステレオプラグ→ミニステレオプラグの変換アダプタ、8ミリビデオテープを10本などを頼んだ。

 

 午後から会社に顔出しする。たったこれだけのことで、すごく疲れた。会社にも、あと何回いけるか、わからない。明日は国立がんセンター中央病院に、診察の予約が入っている。朝9時に病院だから、もう寝ないと。

思い出しながら、「欧州旅行記」を続けます。

 

   【東京発、スミス第21信】

 

4月21日 日曜日 晴れ

 

 アランは、パリマラソンがリヴォリ通りをふさいでいるので困っているふうだった。彼は、大学で日本語を勉強したが、日本へは旅行だけで、留学したことはないという。やや敬語過剰だが、わかる日本語である。

 

 車は、ピラミッド通りを北上し、オペラ通りに入る。説明はパリの地理人口などからはじまる。パリ市内に住むのは2百2十万人、昼間人口の大半は郊外の衛星都市から通勤するから、朝晩のラッシュはすごいこと、20の区に分かれ、中心が1区で右回りのカタツムリ状に番号がついており、標識での区名の見分け方など。オペラ通りも、日曜日の午前9時過ぎでは閑散としている。ガルニエのオペラ座は、パリでは唯一のナポレオン3世様式の建築であるとのこと。ラファイエット、プランタンの量百貨店、オペラ座の皇帝専用入り口(襲撃防止用)、その向かいの「カフェ・ド・ラ・ペ」はパリで一番高いカフェで、コーヒー一杯30フランくらいだとか。

 

 平和通り rue de la paix を南下、右側にカルティエの本店がある。 ヴァンドーム広場と、オースタリッツ戦勝記念塔。この広場はホテルから近いからこのあと何回も歩いてとおる。広場を囲む建物はルイ14世時代のもので、宝石店が並ぶ。中でも「ショメ CHAUMET」は、昔ポーランド大使館で、ここでショパンが死んだとか。ホテル・リッツは、女性の一人客を泊めず、グレース・ケリーも断られたが、ココ・シャネルだけは例外だったという。

 

 アランの車は、ブランド店が並ぶことで有名なサントノレ通り(この1本チュルリー公園寄りにボクらが泊まったホテル・モンタボーがある)に入り、コメディー・フランセーズ、パレ・ルワヤルを見る。そこで右折したら、リヴォリ通りはすでにマラソンが通過したあとで、無事横断してルーブル美術館の構内に入ることができた。

 

 美術館のある宮殿、ガラスのピラミッド、カルーゼルの凱旋門、噴水。展示面積は、来年さらに大幅に増えるという。「宮殿の一番古い部分は、12世紀、鎌倉時代の建築です」などという説明を白人の青年から受けるのも妙な気分である。

 

 カルーゼル橋でセーヌ川を渡る。「右手のビルとビルの間に細い2階建ての建物があるのが見えますか。あれがパリで一番小さい建物です。有名な絵描きさんのドラクロワが住んでいらっしゃったところです」。相変わらず敬語過剰である。

 

 サン・ペール通りからサン・ジェルマン大通りに入る。「カフェ・ド・フロール」「オー・ドゥ・マゴ」など、かつて有名人が集まったカフェの説明。「サン・ジェルマン・デュ・プレ教会は、パリでも古い教会で、平安時代の末期に完成しました」

 

 右折してサン・ジャック通り(美麗華酒家のある通り)に入る。「右手の建物が、ソルボンヌ大学です。昔の授業はラテン語でしたから、このあたりをラテン地区といいます」。すぐパンテオンの前に出る。4年前はじめてパリで泊まったホテルの窓から、パンテオンが正面に見えたっけ。パンテオンを一周して、リュクサンブール宮殿(国会の上院)に向かう。「このありは、各国料理店が多いですが、おすすめできません。同じグループが経営していて、足して2で割ったような味で、本場の料理ではないからです、もし、そういうのも経験だとおもったら、どうぞ」。

 

シテ島

 

 ここも一周する。日曜だから、リュクサンブール公園はにぎわっている。パリ子午線、ドラクロワ記念碑、自由の女神像、などなど、説明が多い。「この右手の角のアパートの最上階に有名な女優のカトリーヌ・ドヌーブさんが、いまも住んでいらっしゃいます」。また、サン・ジェルマン大通りに戻る。

 

 ボクが息子に、つい余分なことをいった。「左に小さなタバコ屋があるだろ、その横丁を入ると、こないだ死んだミッテラン前大統領のおうちがある」。「ずいぶんお詳しいんですね」とアラン。「いえ、なに、4年前にこの近くのホテルに泊まっただけなんです」。当時は現職だったから、警戒が厳しく、横丁を通り抜けられるというだけで、カメラなどは現金だった。いまは、警官の姿も見えない。

 

 アルシュヴェシェ橋を渡って、ノートルダム寺院の裏からシテ島に入る。

 (ちょっとくわしく書きすぎましたが、地図かガイトブックが手元にあれば、指でたどれるように、と書いてしまったのでした、余計なお世話でした)

 

 

 【東京発、スミス第18信】
 
 5月2日木曜日  ウィーンは晴れ

 

 ウィーンヒルトンホテル前にあるシティーエアターミナルまでタクシーでゆき、そこからバスで空港に向かう。バス代お一人様70シリングあがっていた。(約7百円),去年より10シリング上がっていた。

 

 ウィーン空港利用は、去年に続き2度目だが、去年乗ったAエプロンではなく、Bエプロンだった。Aだと直接機内に入れるがそれ以外だとバスに乗ってタラップを上がる。

 

 ウィーン発13:35のモスクワ行きSU262便に乗る。機種は、番号は忘れたが、ツポレフだった。往きのエアバスより小さいがなかなかスマートな機種で、僕らのファーストクラスは3行4列の12席、前2行が禁煙席、後ろ1行だけが喫煙席。

 

 ボクはチェックインのとき、むろん喫煙席といったのだが、客はボクら二人だけだったから、どこに座ってもいいようなものである。ついでにいうと、ビジネスは半分ぐらい座っていた。逆にエコノミーはかなり空いていた。

 

 この機内食をほぼ食べようとするころ、モスクワ時刻で17時(ウィーン時刻で15時)の少し前、急に苦しくなりだした。呼吸が乱れ、上腹部に痛みを感じ出した。すぐに食事をやめてトイレにゆく。痛み止めの座薬を二つ挿入した。すぐ時計を見たら17時ジャストであった。モスクワ着は、18:15となっているが、早く着いてしまった場合も考えておかなければならない。

 

 痛みは、どんどんはげしくなり、バファリン2錠も飲んでしまう。座薬が効くのは早くて30分、悪ければ1時間かかる。いまの痛みではとても歩けない。どうするか。

 

 とりあえず、担当のスチュワーデスに例の英文の患者紹介状を渡して、読んでもらっておく。万一の場合、私は痛みで歩けない、車椅子もしくは担架と介護要員の手配を機長に頼もう、という覚悟であった。ロシア人の乗務員に、どういう英語で言えばいいか、真剣に考えた。

 

 モスクワ時刻 17:30、座薬から30分たったが、まだぜんぜん効いてこない。痛い。とにかく痛い。我ながら苦痛の表情であったにちがいない。

 

 17:40 高度が下がりはじめたのを感じる。「急病人発生、介護スタッフの用意」を頼むべきか迷う。

 

 17:45 痛みが和らぎ始めた。徐々に収まってゆくように感じた。着陸までには、まだ少なくとも15分はかかるだろう。何とか乗りきれそうだ、と感じた。高度は明らかに下がりつつある。

 

 18:00 着陸まじからしい。かなり低く飛んでいる。痛みはひどかったときの3分の1くらいにまで収まって来た。これなら、歩くだけはできる。最悪の危機は去ったのだ。

 

 18:03 ランディング。18:11 バスが近づき、タラップが横付けされる。18:13 乗客の一人目が降りてバスに向かうのが見えた。ボクらは最後に降りることにし、一番大きな荷物は男性の乗務員に頼んで、なんとかバスに移れた。

 

 やれやれ、とおもった、その直後……

   【東京発、スミス第19信】

 

 5月2日木曜日 モスクワは曇

 

 バスが発車した直後、息子は、ボクがコートを着ていないことに気づいた。息子は運転席に走り、彼にしては大声で、「パスポート、パスポート、イン、ジ、エアロプレーン」と何回も叫び、ツポレフ機の方を指さした。バスは、すでにずいぶん離れていたが、ついにUターンしてくれた。

 

 タラップはまだ外れていなかった。息子と家内が駆け上がる。おもったより時間がかかる。ほかの乗客にすまないとおもう。やがてコートをつかんで駆け下りてきた。息子がどなる。「父さん、パスポートは?」「このバッグの中だ」

 

 コートを脱いで、ロッカー内のハンガーにかけるとき、念のためパスポートや航空券はショルダーバッグのほうに移しておいたのだ。それを知らない二人は、周囲を必死に探したという。意外に時間がかかったのはそのためだ。

 

 カミサンは、「どうもお騒がせいたしました。アイ・アム・ソリー」何回も頭を下げていた。ロシア人など外国人に通じたかはわからない。それでも、そういわずにはいられなかったのである。

 

 バスだから、当然ターミナルビルの下の階につく。往きは、横付けだったから上の階についた。往きの記憶が強かったから、似た構造のロシア入国の列に並んでしまっていた。やっと順番が来て、「ビザは?」と聞かれて、「トランスファー・ツー・トウキョー」と答え、「それは上の階だ」と天井を指さされ、やっと間違いに気づいた。

 

 トランスファー審査には、パスポートと航空券の本券が必要なことは、往きの経験から予想できた。こんどは、3人ともすぐ出るポケットに入れて待った。ただ立っているのは、歩くより苦痛になっている。列に並ばず、列が途切れるのを待った。今回は、すぐ通過できた。

 

 次のゲートは、14番だと聞いたから、すぐそっちに向かう。意外に遠い。免税店などをいくつも通り過ぎ、どんどん歩く。自分でもびっくりするほどしっかりとした足取りで歩ける。さっきまでの「急病人」がウソみたいだ。のろいが、堂々と歩いている。自分に声援をおくる。

 

 14番ゲートの前には、14~16番の乗客であふれている。ここにも免税店があるから、椅子などはない。近くの階段の段に腰かけて、妻に並んでもらう。次男は荷物版である。またまた3人なのが役立った。妻の順番がゲート直前になったところで、2人が合流する。

 

 ボーディングパスを貰い、金属検査機をくぐる。今回はまったく鳴らない。一回でパスした。往きのときは、まったく同じ服装で同じポケットの中身なのに、ピーピー鳴りまくり、何回もチェックされ、それが国家警察的な厳しさで不愉快だったが、今回は何事もない。そのいいかげんさに腹が立つ。

 

 


   【東京発、スミス第20信】

 

 「あなたが、私に思い出を残そうとして、ヨーロッパに連れてってくださるのは嬉しいのよ。嬉しいんだけど、私は、旅先であなたの容態が急変したらどうしよう、痴呆がかったあなたのお母さんを一人残して言って大丈夫かしらと心配のことばかりで、とても楽しめそうもないの。今なら、まだキャンセルできるわ。思い出なんかなくてもいい。やめるわけにはいかないの?」

 

 「希望を捨ててはいけない。奇跡を信じることも必要だ。しかし、幻想を抱いてはいけない。ボクの病気のいまの状態は、あとせいぜい1年か2年、というのが相場だろう。だが、今ならまだ大丈夫。ボクにはこの旅行ができる自信がある。おばあちゃんは、家を守るという意識だけがしっかりした人だ。火事を出す心配はまずない。徘徊したこともない。○○(長男)も勤務が終わったら毎晩早く帰ると約束してくれている。ボクは行きたいんだ。キミがやめたいといったら、ボクはヨーロッパに行く大義名分がなくなってしまうじゃないか。行けるのは今しかないんだ。行かせてくれ。」

 

 そういうと、彼女の瞳は、いままで見たこともないほど輝いて見えた。思わず抱きしめると、彼女はボクの肩の上で泣いた。ボクがガンだと聞かされたときも、涙一つ見せなかった妻が、いつまでも泣き続けた。そこにたつ男女は、59歳のオジンと、51歳のオバンではなかった。その瞬間二人は、恋しあう若い男と女だった。

 

 なんでもなくすごしていたら、ボクら夫婦にこんな瞬間、こんな感動があったろうか。「ガンって案外優しい病気なんだよ。自分の人生と向き合える時間をくれるんだ」といわれた言葉をしみじみと実感した。

 (これは、このノートに載せようと書いたのですが、さすがにすぐ公開する気もなれず、無事帰国できたいま、こういう夫婦の会話もあったということを、記録として残すべきだと思うからアップロードするものです)

 


スイスからウィーンに向かう車内 

 

 【ウィーン発、スミス第17信】

 

 5月2日木曜日、日付が変わったばかりで天気は不明、降ってはいない。

 

 きのうは、メーデーで祝日だから、商店銀行すべて休み。開いているのはレストランなどの飲食店だけ。それも場末の当地では休んでいる。タバコ屋も全部休み。たまに自販機があるけど、タバコは31~39シリング(320~400円)するから、それだけの小銭がなくて買えない。一箱余分に買ってあってよかった。

 

 午後2時から、市電、バス、地下鉄などが動き出す。国電だけは朝も動いていたが、こいつはふだんでも30分に一本くらいのダイヤだから、使い物にならないんだ。

 


ウィーンの
マリア・テレジアの
銅像の前

 

 

午後4時ごろ、都心に出てみる。今回の旅行の最後の晩を、いかにそれらしくすごすか、考えた末、今日が水曜日であったことに気づく。水曜日にはホーフブルグ宮殿の2階の大広間でウィーン音楽オーケストラの夕、というコンサートがあったはず。チケット屋にいって、今夜もやるか、切符はまだあるか、聞いてみた。一人450シリング(約4700円)というから、アスキーカードで払う。

 

 王宮の大広間ともなれば、ジャンパー姿ではいやでしょう、といわれて、着替えにホテルに戻り、1時間ほど寝る。6時半に、こんどは車椅子なしでホテルを出て、市電と地下鉄を乗りつぎ、オペラ座のところに出る。軽く食べておくために、伊勢丹隣の ROSENBERGER MARKT-RESTAURANTに入る。ここには、地下2階にあるセルフサービスの食堂で、4年前のときから、しばしばご愛用の店である。自分で見て選んでレジで精算してから席を選ぶ方式だから、ムダなものを買わずにすむのがありがたい。

 

 宮殿までは徒歩10分ぐらい、気遣ってタクシーでといってくれるが、昼寝と食事のおかげか、体調に自身が出てきた。歩ける、といいきる。この旅行で車椅子なしでこれほどの距離を歩いたのは例が少ない。妻はリンク大通りのゲーテの銅像のあたりを自力で歩いているボクの姿をビデオにとってくれる。ホーフブルク宮殿の右翼(というのかリンク通りから遠いほうの側の)内側の付け根の角に入口があった。王宮にふさわしく、すべて慇懃に2階の大広間に案内される。CDやカセットこそ売っているが、プログラム販売などはない。会場10分前だというのに聴衆は4分の入りというところ。

 

 定刻8時半の2分前にオーケストラが入場し、すぐ指揮者が出てきて、シュトラウス「ウィーンの森」がはじまる。バイオリン14人、ビオラ5人、チェロ3人、コントラバス2人、管は木金合わせて14人、打楽器は2人ですべての打楽器を持ちかえてやる。全部で40人ほどのオーケストラである。ワルツが終わると、歌手3人が次々と登場し、「フィガロの結婚」「ドンジョバンニ」「魔笛」などから有名なアリアを交代で歌う。男性が二人(年配と若いの)、女性が一人、ソロ、デュエットなどに応じて交代で登場する。

 

 「アイネクライネナハト」の冒頭、クラリネット協奏曲の第2楽章などがあって、モーツアルトからヨハン・シュトラウスに移る。。ワルツやポルカなどに続いて「こうもり」「ジプシー男爵」などのさわりをさきほどの歌手が次々と歌う。3重唱もある。最初の10分くらいは、またワルツ、ポルカ。10時ぴったしにプログラムを終る。アンコールはお約束どおりに、「ラデヅキー行進曲」で、観客を手拍子でのせるもの形どおり。これで終了。このアンコールでは観客のフラッシュもはげしく、僕も安心してビデオを回す。

 

 王宮を奥の広場側に抜け、そこでタクシーを拾い、中央郵便局裏のレストランに向う。ここは去年2月、長男と入った店で思い出を共有させるために、最後の晩にとっておいたのだ。

 

 タクシーでホテルに戻り、日本に帰る荷造り。いまこれを書き終える時刻は現地時間午前1時半。これを送信したら、電話線や電灯船、ビデオの充電器などもはずしてしまう。おしまい。