【東京発、スミス第18信】
5月2日木曜日 ウィーンは晴れ
ウィーンヒルトンホテル前にあるシティーエアターミナルまでタクシーでゆき、そこからバスで空港に向かう。バス代お一人様70シリングあがっていた。(約7百円),去年より10シリング上がっていた。
ウィーン空港利用は、去年に続き2度目だが、去年乗ったAエプロンではなく、Bエプロンだった。Aだと直接機内に入れるがそれ以外だとバスに乗ってタラップを上がる。
ウィーン発13:35のモスクワ行きSU262便に乗る。機種は、番号は忘れたが、ツポレフだった。往きのエアバスより小さいがなかなかスマートな機種で、僕らのファーストクラスは3行4列の12席、前2行が禁煙席、後ろ1行だけが喫煙席。
ボクはチェックインのとき、むろん喫煙席といったのだが、客はボクら二人だけだったから、どこに座ってもいいようなものである。ついでにいうと、ビジネスは半分ぐらい座っていた。逆にエコノミーはかなり空いていた。
この機内食をほぼ食べようとするころ、モスクワ時刻で17時(ウィーン時刻で15時)の少し前、急に苦しくなりだした。呼吸が乱れ、上腹部に痛みを感じ出した。すぐに食事をやめてトイレにゆく。痛み止めの座薬を二つ挿入した。すぐ時計を見たら17時ジャストであった。モスクワ着は、18:15となっているが、早く着いてしまった場合も考えておかなければならない。
痛みは、どんどんはげしくなり、バファリン2錠も飲んでしまう。座薬が効くのは早くて30分、悪ければ1時間かかる。いまの痛みではとても歩けない。どうするか。
とりあえず、担当のスチュワーデスに例の英文の患者紹介状を渡して、読んでもらっておく。万一の場合、私は痛みで歩けない、車椅子もしくは担架と介護要員の手配を機長に頼もう、という覚悟であった。ロシア人の乗務員に、どういう英語で言えばいいか、真剣に考えた。
モスクワ時刻 17:30、座薬から30分たったが、まだぜんぜん効いてこない。痛い。とにかく痛い。我ながら苦痛の表情であったにちがいない。
17:40 高度が下がりはじめたのを感じる。「急病人発生、介護スタッフの用意」を頼むべきか迷う。
17:45 痛みが和らぎ始めた。徐々に収まってゆくように感じた。着陸までには、まだ少なくとも15分はかかるだろう。何とか乗りきれそうだ、と感じた。高度は明らかに下がりつつある。
18:00 着陸まじからしい。かなり低く飛んでいる。痛みはひどかったときの3分の1くらいにまで収まって来た。これなら、歩くだけはできる。最悪の危機は去ったのだ。
18:03 ランディング。18:11 バスが近づき、タラップが横付けされる。18:13 乗客の一人目が降りてバスに向かうのが見えた。ボクらは最後に降りることにし、一番大きな荷物は男性の乗務員に頼んで、なんとかバスに移れた。
やれやれ、とおもった、その直後……
【東京発、スミス第19信】
5月2日木曜日 モスクワは曇
バスが発車した直後、息子は、ボクがコートを着ていないことに気づいた。息子は運転席に走り、彼にしては大声で、「パスポート、パスポート、イン、ジ、エアロプレーン」と何回も叫び、ツポレフ機の方を指さした。バスは、すでにずいぶん離れていたが、ついにUターンしてくれた。
タラップはまだ外れていなかった。息子と家内が駆け上がる。おもったより時間がかかる。ほかの乗客にすまないとおもう。やがてコートをつかんで駆け下りてきた。息子がどなる。「父さん、パスポートは?」「このバッグの中だ」
コートを脱いで、ロッカー内のハンガーにかけるとき、念のためパスポートや航空券はショルダーバッグのほうに移しておいたのだ。それを知らない二人は、周囲を必死に探したという。意外に時間がかかったのはそのためだ。
カミサンは、「どうもお騒がせいたしました。アイ・アム・ソリー」何回も頭を下げていた。ロシア人など外国人に通じたかはわからない。それでも、そういわずにはいられなかったのである。
バスだから、当然ターミナルビルの下の階につく。往きは、横付けだったから上の階についた。往きの記憶が強かったから、似た構造のロシア入国の列に並んでしまっていた。やっと順番が来て、「ビザは?」と聞かれて、「トランスファー・ツー・トウキョー」と答え、「それは上の階だ」と天井を指さされ、やっと間違いに気づいた。
トランスファー審査には、パスポートと航空券の本券が必要なことは、往きの経験から予想できた。こんどは、3人ともすぐ出るポケットに入れて待った。ただ立っているのは、歩くより苦痛になっている。列に並ばず、列が途切れるのを待った。今回は、すぐ通過できた。
次のゲートは、14番だと聞いたから、すぐそっちに向かう。意外に遠い。免税店などをいくつも通り過ぎ、どんどん歩く。自分でもびっくりするほどしっかりとした足取りで歩ける。さっきまでの「急病人」がウソみたいだ。のろいが、堂々と歩いている。自分に声援をおくる。
14番ゲートの前には、14~16番の乗客であふれている。ここにも免税店があるから、椅子などはない。近くの階段の段に腰かけて、妻に並んでもらう。次男は荷物版である。またまた3人なのが役立った。妻の順番がゲート直前になったところで、2人が合流する。
ボーディングパスを貰い、金属検査機をくぐる。今回はまったく鳴らない。一回でパスした。往きのときは、まったく同じ服装で同じポケットの中身なのに、ピーピー鳴りまくり、何回もチェックされ、それが国家警察的な厳しさで不愉快だったが、今回は何事もない。そのいいかげんさに腹が立つ。
【東京発、スミス第20信】
「あなたが、私に思い出を残そうとして、ヨーロッパに連れてってくださるのは嬉しいのよ。嬉しいんだけど、私は、旅先であなたの容態が急変したらどうしよう、痴呆がかったあなたのお母さんを一人残して言って大丈夫かしらと心配のことばかりで、とても楽しめそうもないの。今なら、まだキャンセルできるわ。思い出なんかなくてもいい。やめるわけにはいかないの?」
「希望を捨ててはいけない。奇跡を信じることも必要だ。しかし、幻想を抱いてはいけない。ボクの病気のいまの状態は、あとせいぜい1年か2年、というのが相場だろう。だが、今ならまだ大丈夫。ボクにはこの旅行ができる自信がある。おばあちゃんは、家を守るという意識だけがしっかりした人だ。火事を出す心配はまずない。徘徊したこともない。○○(長男)も勤務が終わったら毎晩早く帰ると約束してくれている。ボクは行きたいんだ。キミがやめたいといったら、ボクはヨーロッパに行く大義名分がなくなってしまうじゃないか。行けるのは今しかないんだ。行かせてくれ。」
そういうと、彼女の瞳は、いままで見たこともないほど輝いて見えた。思わず抱きしめると、彼女はボクの肩の上で泣いた。ボクがガンだと聞かされたときも、涙一つ見せなかった妻が、いつまでも泣き続けた。そこにたつ男女は、59歳のオジンと、51歳のオバンではなかった。その瞬間二人は、恋しあう若い男と女だった。
なんでもなくすごしていたら、ボクら夫婦にこんな瞬間、こんな感動があったろうか。「ガンって案外優しい病気なんだよ。自分の人生と向き合える時間をくれるんだ」といわれた言葉をしみじみと実感した。
(これは、このノートに載せようと書いたのですが、さすがにすぐ公開する気もなれず、無事帰国できたいま、こういう夫婦の会話もあったということを、記録として残すべきだと思うからアップロードするものです)
スイスからウィーンに向かう車内