昨年までなかなか動けませんでした。
何をやるにも重くて重くて、動けないんです。
お決まりの雑事はテキパキこなせちゃうんですけどね。
新しいこととなると、本当に、何度も確認したり、失敗したときのこともシュミレーションして、こうなっても大丈夫かなんて、、、。
それが、昨年の年末辺りから流れが変わりました。
何でだろうと考えてみたのですが、どうも結果にこだわらなくなった自分がいるようです。
自分が楽しんでいるか、納得しているか、そこが大切で、
ハートが喜んでいると、結果はあまり関係ないようです。
ハートが喜ばない事は、無理してやらなくなりました。
そして、委ねるということが、少し上手になったように感じます。
で、もう一つには、「責任」という言葉の定義が、私の中で変わったのかもしれません。私は責任感が強い、と思っていたのですが、どうやら違っていました。
ある人がブログで、上からのメッセージを書いていたんですね。
「何事もすべて己の力でやろうとするは、責任感の裏側にある、
エゴでもあるぞ。
他のやつには任せられぬ、
他のやつは信用できぬという不信の想いじゃ。
その想いを手放すがよい。」
ひえ~、私これこれ、だって誰も何も信じられないもの!
(以前このブログで書いた35以上の思い込みを見れば分かると思います)
信じるなんて、任せるなんて、ましてや委ねるって何よ!
分からん!分からん!分からん!
あ~、かなり重症!
いっぱい癒やしたつもりなのに、、、、まだ大きな残骸が。
そこで、
兎に角、残骸があることに気がついたなら、またその部分の自分自身を癒やしてあげよう、と感じるままに癒やしを積み重ねているうちに、
なんか、ちょっと委ねるってのをやってみようかな、
なんて思い始めたのです。
委ねるとは、私の言葉で言うと、
自分がやろうと思ったことを、結果を気にしないでやってみること。
やってから、結果を見て、また次を考えればいい。
以前は、自分の期待する結果がでないと、自分をバッシングしていました。
だってねぇ、自分だけでやることならともかく、相手がいることは予測が立たないじゃないですか。
だから、結果を期待しなくなった、そして自分も責めなくなった。
(勿論、不備な点は反省改善が必要ですけどね)
バイロン・ケイティの言葉を借りれば、私の責任?彼女の責任?神の責任?
と責任分けをして、私の責任だけに責任を感じるようにしたのです。
(神の責任とは、もう既に起こっちゃたことです。起こってしまったことに対して起こるべきではなかった、○○のせいだ、といっても意味がないということですね。
以前は、全部私のせいだと思い込んで背負い込んでいました、、、お、重い。)
そうすると、私や周りの評価や期待には関係なく、ただ必要なことが起こっているだけだと、分かってきたんです。
今では、私の色眼鏡で見た想定は、神の奇想天外な計画より劣っているのだから、自分の想定外なことが起こっているということは、きっとなにかあるぞ!と楽しんでいたりします。
最初から無駄がないようにとか、失敗しないようにすることにエネルギーを使うことも止めました。
やってもいないのに、失敗や無駄を省こうと、机上の考えだけで分かったつもりになってました。それで、いつまでたっても腑に落ちなかったのです。
実は、人生の中で無駄はどこにもありません。
それどころか、無駄を嫌ってやらないから、想定外のプレゼントをもらい損ねます。無駄や、失敗から大きな発見があることも沢山あるのですから。
ただやってみる、体験してみる。
やってみて楽しいかどうか感じればいい。
やってみて、それが好きなのかどうか知ればいい。
そう思うと楽ですね。なんでもOK.なんです。