分離感は強まったり弱まったりする | 自分世界探検家のブログ

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人はみんな自分の信じていることに基いて、全てを解釈しています。
だから、全ての人がそれぞれ自分の世界に住んでいるとも言えるでしょう。

ぼくはぼくの世界を探検しながら、気付いたことや発見したこと、気になったことなどをここに記録しています。

分離感が有る人と無い人の違いを書いた。

 

分離感が有る人、と言うか強く感じている人は、物凄く沢山考えていると思う。

不安だからいろいろ警戒したり、失敗して窮地に陥らないように自分にルールを課したりしているからだ。

 

これを利用して活力を引き出すことも出来る。

何かやらなければいけないことが有る時に、これをやらないと大変なことになると思うと怖くなって真っ先にやってしまうみたいな。

 

あとは、現状の自分は弱くて不十分なので成長しないといけないと考え、継続的に努力し続けることが出来るとか。

 

しかし、何にしろ、不安が根底に在るので、気が休まらず常に何か考えている。

好きでやっている訳ではないので、消耗が激しい。

無意識にしてるので、自分では何もしていないのに疲れている。

 

 

これに対して、分離感をあまり感じていない人は、不安からの思考が少ないはずで、その負荷が無いのだからたぶん楽なのではないかと思う。比較のしようがないけど。

 

浮いたエネルギーは自由に使えるから、やりたいことを全力で出来るのだろう。

 

 

前のブログで分離感は有るか無いかではなくて、分離感80%とか60%というように持っているものかも知れないと書いた。

また、この分離感の割合は変わるかも知れないと。

 

これはその人の立場や経験による考え方の変化の影響を大きく受けるんじゃないかと思う。

 

例えば、結婚して家族が出来るとか、職場でのポジションが上がって部下や後輩が出来るなど、社会的な立場が変わったときだ。

 

それまでは自分のことだけを考えていれば良かったが、今後は家族や部下、後輩の面倒も見ないといけなくなる。

 

たぶん、自分や自分が守るべき人たちが危機に遭遇するとか突発的な不幸に見舞われるといった恐怖を実感するような経験をすると、分離感が一気に強くなるのかなと思う。

 

 

では、逆はどうか?

ぼくは自分が少し優しくなったという経験をしているので、分離感を弱めることも出来るようだと思っている。

 

 

でも、一気に優しくなれた訳ではなかった。

 

他人に対する評価が厳しかったな~と。

ぼくの中のルールを破る他人は即座に嫌ったりしていた。それも無意識に。

だから思いっ切り顔や態度に出ていたと思う。

 

自分の中のルールというのは、それまでの人生で自分に課すようになった決まりで、自分で勝手に考えているものだ。

それが沢山有って、自分でそれを守ろうとするのはぼくの勝手だけど、それを他人の評価にも適用していたのだ。

ルールを守らない奴は嫌い、という考えだったのだ。

 

自分や他人の気持ちよりもルールを守ることを優先していたということ。

そんなことをするのは何故か?ぼくは人が嫌いだからなのか?

 

自分の中のルールは、元々は他人と波風を立てないで生きて行くために作ったものだった。

でも、それを守ることこそ大事だ、といつの間にか考えがすり替わっていて、自分の中のルールを守らない他人は悪となっていたのだ。

 

主客転倒だ。

では改めて、ぼくは人が嫌いなのだろうか?

 

長い時間がかかってどうやらそうではないようだと思い至った。

 

それなら、他人にも優しくしたいと思ったのが変化する最初の段階だったと思う。

 

 

そういった経験から、分離感は強まり易く、弱まり難いように感じている。

でも、それはぼくが元々分離感が強いからだろう。

つまり、分離感が強い人はより強く、弱い人はより弱くなり易いのではないだろうか。

 

だから分離感が強い人が弱まるとか、弱い人が強まるということは起こり難いだろう。

 

 

ぼくの分離感が弱まる方に行くようになる最初のきかっけは適応障害の発症だと思う。

今考えると、分離感が最強になった結果自分が耐えられなくなったと思う。

分離感が自分の許容範囲を超えると、それまでの自分の世界観を破壊するような激的な経験が訪れるものなのかも知れない。

 

陰極まって陽に転ずるというヤツだろうか。

 

では、陽極まって陰に転ずるということだってあるのか?

ぼくには分からない。

でも、あるんじゃないかと思う。