他人に自分を分かって欲しいというのは、
自分で自分のことを知っていくのは面倒なので、
人に知ってもらいたいという感じがする。
自分を分かってもらいたい、と言っても、
裁いて欲しいとか、自分の精神構造、自分の仕組みみたいなものを理解して欲しい訳では無く、
自分と同じ感覚を共有したい、みたいな感じだろうか。
無条件でいつでも味方になってくれるみたいな。
「分かるよ。当然そうなるよね。
あなたは間違っていない。」
何となく、親の保護みたいなものの代替品を探している感じがしないでもない。
そう書いてみて、保険みたいな感じかな?と思った。
自分勝手に振る舞っても、何もとがめられたり、辛いしっぺ返しに合わないことを保証してもらいたいみたいな。
そうすることで安心したいのだろう。
そして、自分の選択による結果、自分の期待通りでなかった場合にその責任を転嫁する相手が欲しいのだろう。
その人を責めることで、自分は被害者で居られるようにしたいのだ。
甘えや依存があるような気がする。
それは自由の放棄のような気がする。
どんな結果となっても受け入れること込みで自由何だと思う。
保険が無いこと込みで自由なんじゃないか?
全く誰の強制や保護といった、制限を一切課せられない状態だろう。
そう考えると、自由が怖いのかも知れない。
誰かに、良い悪いを判断してもらって、自分はその判断に従っていれば間違いが無いみたいな。
あるいは、オレの気持ちが分かるならオレの言うことを聞けみたいな。
そこには何となく主従関係のような縦の関係性が見える気がする。
何処と無く損得や契約の感じが漂う。
「いや、そんなことは無い。ただ共感が欲しいのだ。」
そうだろうか?
共感って何だろう?
そして、どうして共感してもらいたい?
その前に、まず自分で自分のことを知ることが先だと思う。
自分を知れば、他人に知ってもらいたいという欲求は無くなるか、有ったとしても質的に違うものになる気がする。
だいたい自分のことを知らないのに他人に共感してもらうなんて、無理な話だと思う。
自分の事は自分が一番良く知っているという人も居るだろう。
それは自分の属性を熟知しているという意味だと思う。
つまり、自分の過去の情報群だ。
しかし、それをいくら知っても、自分が今何を感じているか?は分からない。
今感じているか?は実際に感じてみないと分からないからだ。
生きるとはそういうことだろう。
自分を知るとは、現在進行形でずっと続くことだ。
自分を知った、となった瞬間にそれは自分の過去になっている。
自分を知るのは簡単でないのだ。
それは当然孤独な作業で、甘えや依存が介在し得ない。
自分で自分を知ろうとしないで、他人に分かってもらおうとするのは、
やっぱり何か、楽したいというか、簡単に安心したいみたいな感じがする。
「自分を知る」と、「自分を分かって欲しい」は見た目似ているけど向いている方向が全く逆のように感じる。
その違いは表現にも出ている。
「自分を知る」は能動的で、
「自分を分かって欲しい」は受動的なのだ。
では、自分を分かってもらうことを求めるのは間違いなのだろうか?
間違いだとしてもやる人はやるだろうけど、一応書いてみる。
分かってもらうことを求めるというのは、
他人に強要している感じがする。それは他人をコントロールしようという試みだと思う。
ぼくは勘弁して欲しい。
自分を知ろうとしている人同士で、
何か通じ合うという感覚はあるのかも知れない。
それは、共感かも知れないし、親しみかも知れない。
自分を知ることを通して、人を、世界を知ろうとする道を歩む者が感じられる、
一つの御褒美なのかも知れない。
そういう感覚を持つ人たちが築いて行く関係性とはどんなものなのだろうか?
すごく興味が掻き立てられる。