良い姿勢も、悪い姿勢も無いということを書いた。
これは、良いとか悪いという判断、区別、ジャッジは、
全て考えなので、頭の中にしか無いということだ。
だから良い姿勢も実際には無いし
悪い姿勢も実際には無い。
しかし、何で良い姿勢とか悪い姿勢と考えるのか?
これは存在をどう捉えているのか?
ということが関係しているだろう。
その時その時で、
と言うか、
場面場面で、
と言うか、
時代時代で
と言うか、
時間的に区切って、その範囲内で
存在は変化しない固定されたモノとして捉えているからだと思う。
そして、存在はあるタイミングで、
ひとつの状態から、別の状態に変わることがある。
これは特異なことだと、無意識に思っているのだろう。
でも実際にはあらゆる存在は変化変容している。
刻一刻変わり続けている。
固定されていない。
でも、頭の中でそれは変わっていないと考えるので、
存在を判断、区別、ジャッジ出来ると思えるのだ。
だから、本当は、判断、区別、ジャッジの対象は、
存在ソノモノではなくて、その存在に対する自分の中のイメージでしかない。
良い姿勢、悪い姿勢とぼくが考えるとき、
正しくは、
良い姿勢を取っているというイメージ、
悪い姿勢を取っているというイメージと言えるだろう。
だから実際のソノモノ、
ぼくの例で言えば、実際の自分の身体のことを考えている訳じゃ全くないのだ。
実際の身体のことを考えるってどういうことか?
たぶんそれは出来ない。
考えた時点でイメージだから。
せいぜい、実際の身体を知ろうとすることしか出来ない。
それは感じること。
考えるのではなくて、身体からの感覚を感じることだ。
身体は刻一刻と変わり続けると言うことが腑に落ちないと、
いや、身体は変化しないという考えを捨てないと
これは続けられないと思う。
そうなったら、安易に判断、区別、ジャッジ出来ないだろう。
感じたり、観察することしか出来ない。
それこそが、存在を受け入れるということかな?
と思う。