潜在意識で信じている(知っている)ことが、
自分を呪縛することを書いた。
呪縛とは違うだろうけど、
感情に振り回されるというのも不自由だなと思う。
ぼくの場合、
生活の端々で感情が出て来る場面を観察すると、
他人の言動や事柄自体が原因じゃないと分かって来た。
原因は、それをどう解釈してどう判断するか?
という考えだ。どうジャッジするか?ということ。
一番多いのは、
「善悪」「正誤」「損得」という基準による判断。
他人や自分の言動が善いことか?悪るいことか?
と考えて怒ったり、反省したりしている。
正しいか?間違っているか?
と考えて感心したり、恥ずかしがったりしている。
損したか?得したか?
と考えて悔しがったり喜んだりしている。
実際にはもっといろいろなジャッジをしてる。
見聞きしたものの意味を考えて、
それを「善悪」「正誤」「損得」などの観点で判断して、
感情的になって、それを言動として表出する。
それには結構な労力を使っていると思う。
ズボラなぼくは自分がやっていることなのに、
随分面倒臭いことをしてると感じる。
そこまでして何のためにしてるのだろうか?
ぼくは自分を観察して来て、
2つ目的が有ると思っている。
1つは護身のため。
自分という、世界から孤立した存在を維持するため。
自分は卑小な存在なので、身を守らなければいけない。
そういう考えが有って、それが身構える理由となる。
ぼくの場合は明らかに
悪いこと、間違ったこと、損することが起こったと思ったときもそうだけど、
そうなりそうな予兆を感じたときに、もう感情が出て来る。
そして感情が出て来たことが、
悪いこと、間違ったこと、損することが起こったが事実だったとなる。
悪いとか間違ってるとか損したというのは、
自分が考えたことなのに、事実だったんだと信じちゃうのだ。
これを何度も繰り返して、護身のための物事をジャッジすることが必要だとなる。
そして当たり前になって、自分がやっていることだという自覚も無くなる。
「悪いことが有った。」
「ひどい目に遭った。」
「損した。」
と言っている人たちは、
自分がそう考えているとは思っていないだろう。
本当にそういう経験をしたと思っている。
まあいいや。
話を戻そう。
ジャッジする目的のもう1つは、娯楽。
感情を味わうことが娯楽になっているのだ。
これは嬉しいとか楽しいとか可笑しいとか、
ポジティブな感情だけじゃない。
怖いとか悲しいとか悔しいとか惨めとか、
ネガティブな感情も味わいたいのだと感じる。
怖い話や、ジェットコースター、
マンガや本やドラマや映画、
あとニュースなんかを好むのは、
感情を楽しんでいるからだろう。
これに気付かなければ、
感情に振り回されることからは解放されないだろう。
余談だけど、
味わう感情は選べないだろう。
感情を味わうためにはジャッジが必要で、
ジャッジして感情が出るまでは1セットになってる。
だから楽しい感情が出るかどうかはジャッジしてみないと分からない。
楽しい感情しか出ないジャッジは無い。
だから味わう感情は事前には選べない。
別に感情が出て来て、それに振り回されるのが悪いことではないだろう。
しかし、何十年もやって来て飽きたと言うか、
それに費やされる労力が多すぎると感じるようになった。
感情的になっていると疲れるのだ。
そして、感情的になっているというのは平静では無いということ。
要は普通じゃない状態なのだ。
ぼくは本当の自分では無くなっている状態だと思う。
それは、自分を粗末にしているんだと最近気付いた。
平静であることよりも、
怒ったり、はしゃいでだり、悲しむことを選ぶのは、
自分を放っておいて、感情にかまけているのだ。
大事にすべきは自分だと思うようになった。
今現在の自分の感覚を感じること、
出て来た感情を感じ切ることだと思う。
感情に振り回されることと感情を感じ切ることに違いは別に書きたいと思う。