いつでも自分らしさを求めていて。触れるたびに感じたものを大切にしている。気持ちの良いのがきっとそうだ。

追求していくと、知りたくなかったものだとか、恐くなったりもするけれど、きっとそれが私が生きるということだ。


きっと、数年前よりもあらゆるものに対する距離感がどんどん変わっている。排除してきたものが多すぎたかもしれない。たくさんの人を傷つけた。得たものよりも更にたくさん。


でも、それが私が選んだ道だ。

後戻りもやり直しもしない。いくら途切れたとしてもそこから繋げていく。


失ったものより今手にあるものを愛でて生きたい。

それは、アイデンティティとして、確固たるもの。


だから、もう謝らない。振り返らない。


私は私として生きてゆく。

他者との距離を再構築して、今を得た。


謝らないよ。


私はすすむから。




キミの命に期限がついてから。

私なりに考えたんだけれどね。

ますます私が私らしくなってゆく。

曖昧だったキミとの距離感が、明確になってきてさ。

もう昔には戻れないって知った。


消えてなくなっても、きっと私とキミは絆を失わないって思うのは、信頼かな、放棄かな。

信じてるけど。


選んだ道に後悔しないといったら嘘になる。


それでも私は生きて進んでいる。




繋がりを放棄した訳じゃない。

そう言ったらキミは、それで良いんだと思うよと言った。




ここでおしまい。

きっと逃げてる。





自分の作品は作品として受け入れられてるって知って。なんだか泣けてきました。勝手な負の概念を作り上げる必要なんてなかったのにね。

写真を残したいと思う人間の気持ちがわかった気がする。写真は作品である時点で自分1人だけのものじゃなくて。そこには他者と繋がって共有したい感動があるからで。


認めて貰う為の作品。自分の為だけの小説。そうじゃなくて、他人に何かを与えられる存在になりたいと思う。


受け取ってばかりではなく。与えられるような。

無駄な恐怖心で自らの可能性の幅を狭める行為は非常に馬鹿馬鹿しい!



さて。今、マジョリティとマイノリティーをテーマにした話を書きたいのだけどね。何故最近は、30、40ページくらいで指が止まって、放置した原稿がいくつか転がっているのだろうね。ケツ叩けってか。それなら短い話でもいいから、まず達成感とかその辺りから養った方が良いのかね。ここ数年、小説が仕上がらないのは、気合いですか、姉さん。いやぁ、姉さんが本に載った時は複雑でしたよ(苦笑)


メモ
・映画館
・ねこ
・、


そういえば、最近書いた詩を集めて詩集を作ろうかと思います。自己満です。

とにかく、今まで動かなかった、そしてまだとろとろしてる自分、鼻ファック。

やはり此方のブログを使うことにしました。オーケイ。今日もふざけていこう。



辛辣でえげつないのは、肥えた目をどうにかして肥えさせたいと動いた結果だと思って欲しい。いつでも真実だけが欲しい。真理を求めた先に何を欲しているのか、達してみなければわからない…と今はしておく。
そう。何故今まで動かなかったのか不思議で仕方ない。達成は時を理由にしなければ可能だ。可能な試練しか与えられない。対象を観察し、意志があれば身体は動き策をこうじる。今までそれをわかっていたのに何故自分の身の上話から程遠い、机上の空論のように話したのだろう。思い出そうともしなかった。そして何故今、我が身の事だと理解して動いたのだろうね。
なるようになり、なるようにしかならない。
やるかやらないか、という若気の力強さは必要なく、なるべくしてなる私のこの人生を存分に楽しみ、毎日を毎日過ごす。客観視すれば、そこかしこに転がる原石が顔を覗かせる。あの脅迫観念じみた一生懸命なんていう言葉はもう必要ない。日々原石を磨く。垢になり人となる。
人は成長するものだ。焦らずとも成長するし、望まずとも人は変わる。それなら限界や期限などを敷きまるでそれしかない様に息を詰め生き急ぐのは馬鹿馬鹿しく、その人のあらゆる可能性こそ、かけがえのない人の成長という価値の源なのだろう。そこにコッテコテの加工品、ましてや他意は必要ない。誰かをどうかしようなんて愚問。影響を与えたい与えられたい、自らが正義を振りかざしたい縛られたい、といったものは必要ない。共に過ごす、それこそが最小限、最大級の幸せなのだ。
そして、最終目標は何かの達成ではない。最近噛み締めたことだ。