番外編 VELVET PΛW 〜プログレッシブ・ロックとJ-POPの狭間で(第五話) | skyp2tの音楽が好き!

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〈ベルベット・パウの歴史 part.7〉


VELVET PΛW メンバー紹介③

ベース 平野安芸子(あきこ)



初期に近い時期(1984年〜)から1993年の解散まで一貫してベルベット・パウの屋台骨を支えて来たのが、ベーシストの"あこぴ"こと平野安芸子(あきこ)


1stアルバム収録曲、「CHERRY BOY」のベース音だけぜひ聴いてみてください。

凄さがわかります。



中学生の時にLAZYレイジー)のベーシスト・田中宏幸(通称ファニー)に夢中になり(追っかけではなくいわゆる熱心なファンだったらしい)、好き❤️が高じてベース演奏をスタート。


その後子供ばんどパール兄弟と好きなバンドが変遷。


尊敬するミュージシャンはエディ・ヴァン・ヘイレンパール兄弟窪田晴男


好きなベーシストはパール兄弟岡野ハジメデュラン・デュランのジョン・テイラービリー・シーンラウドネスの山下昌良TAIJIモトリー・クルーニッキー・シックスなどなど。


ご本人の性格は明るくてマイペースで整理整頓が得意なタイプだったようです。



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丁度一年前に書いた〈第3夜〉のブログで、


ベルベット・パウ1987年に入り一度デビューアルバムのレコーディングに入ったものの、同年3月にレコーディング中止に至った


ということを書いたんですけど、

まずは、


1987年1986年の間違いでした。

すみません🙇


それともうひとつ。

どこのレコード会社からアルバムを発売する予定だったのか、ブログを書いたときは全く分からず。


当時同じ事務所だったアースシェイカー、そのアルバムを出していたキング・レコードネクサス・レーベルだったんじゃないか、と当時推理していた訳なんですけど。


その後ずーっと長いこと疑問には思っていたのですが、最近入手した2つの資料からその推理が全然違っていたことがわかりました。



資料のひとつがこちら、



1981年にプログレッシブ・ロック専門インディーズレーベル『メイド・イン・ジャパン』を設立。

1987年にはクラウン・レコード内にVICEレーベル、1988年にはキング・レコード内にCRIMEレーベルを立ち上げる等、日本のプログレッシブ・ロックバンドのアルバムリリースの間口を広げた他、アウター・リミッツヴィエナテルズ・シンフォニア等のプロデュースを行なったジャパニーズ・プログレッシブ・ロック界の生き字引、

ヌメロ・ウエノ氏編纂による、1970年〜1990年までの20年間に存在したメジャー/非メジャーのジャパニーズ・プログレッシブ・ロックバンドを網羅した最重要エンサイクロペディア、『ヒストリー・オブ・ジャップス・プログレッシブ・ロック』(1994年出版)。この書籍にベルベット・パウの項目が。


桐生千弘が中学時代の1981年にバンド結成、当初の学園祭バンドから徐々にオリジナル志向に。

1983年には渋谷エピキュラスにてライブ・デビュー。その後東京のライブ・ハウス・シーンで注目され、コロムビア・レコードからアルバム制作の誘いが。レコーディングの準備に入ったが、

桐生千弘急病により1986年3月〜12月まで活動休止となった、とのこと。


もう一つの資料が活動休止1ヶ月前、1986年2月号として発売されたロック雑誌の特集記事。









丁度レコーディング準備中でしょうか。

ギターは羽純玲子(〜86年)。


キーボードが不在なので4人バンドになってます。

なのでキーボード前メンバー坂口真弓(81〜85年)の後任、池田亜樹(85年)が在籍して辞めたあと、85年12月〜86年1月あたりの本当に活動休止直前の写真だと思われますね。


以前あげた池田亜樹(kb)在籍時のメンバー写真



この雑誌の記事で、かつてラウドネスを手掛け、当時MAKE-UPベルベット・パウを担当していたという日本コロムビアの制作ディレクターのインタビュー記事が載っていたことで、ファースト・アルバム発売予定だったレコード会社が日本コロムビアで確定となった訳です。


当時のベルベット・パウの音楽性は、


ブラフォードあたりのカンタベリー系ジャズ・ロックから影響を受けたリズム・コンビネーションを持つポップ色強いプログレッシブ・ロック&ヴァン・ヘイレン風ハード・ロック


だったそうで。


個人的にはめちゃど真ん中のサウンドだったようですねー。後のソニーメジャー以降よりかなり硬派な音だったのかも知れません。


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ここでベルベット・パウ1stアルバム

VELVET PΛW』(1989年)

収録曲よりこちら2曲を。


AIM OF LOVE



作詞・作曲: 桐生千弘


かたちのない幸せを ただそれだけを

信じるのは難しいから

いつもたやすい明日へと 流されて行くのさ

答えのない問いかけを

続けるだけの日々に疲れ


To lose somebody for your love 夢に破れて

To lose some dreams for your love ただ明日へ流されるまま


息苦しい沈黙に 心閉ざした

昨日までの嘘に隠れて

いつか 信じたものさえも失って行くのさ

終わりのない憧れに

さまよい歩く夜に疲れ


To lose somebody for your love 夢に破れて

To lose some dreams for your love ただ明日へ流されるまま


To lose 何を求めて さぐりあう瞳

To lose 夢に破れて Nobody cares

To lose somebody in turn for aim of love, such an easy end.

To lose some dreams in turn for aim of love, nobody cares.


To lose somebody in turn...for aim of love.

To lose somebody in turn...for aim of love.

To lose somebody in turn...for aim of love.

To lose ...



SOLITALY


作詞: 桐生千弘・須賀直美 

作曲: 桐生千弘


1月の午後 光と影の中

僕を置いて ひとり走り去る君のシルエット 

今 確かな答えなんていらない だから

"もう愛せない" そんな言葉忘れて 今はこのまま

微笑んで 走り出す時を このまま


とりとめのない 想いにすがる冬の日々

問い続ける君は なぜ違う明日を選んだ

今 確かな答えなんていらない だから


"もう愛せない" 揺れる心忘れて 今はこのまま

微笑んで 走り去る君を このまま

閉じ込めたい


"愛せない" 言わないでもう 今はこのまま

微笑んで 走り去る君を このまま

閉じ込めたい




1stアルバムの曲に何故か惹かれてしまいます。



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〈追記〉

平野安芸子がベースを志すきっかけになったバンド・レイジー(1977年〜81年)についてちょっとだけ。



当初"和製ベイシティ・ローラーズ"を作るためにアイドルバンドとして集められたメンバー達は、それを抗うかのように本格的なハードロックバンドへと劇的に変貌の後、分裂。



榊原郁恵を囲んだアイドル時代のレイジー



こちらが約3年経つと

ハードロックなビジュアルと音楽性に!



分裂後、ギターのスージー(高崎晃)は本格的な国産へヴィ・メタルバンド・ラウドネス(1981年〜)を結成。


ボーカルのミッシェル(影山ヒロノブ)はご存知アニソン界のプリンスとして不動の地位を築き、JAM Project(2000年〜)等の活動でも有名。


ベーシスト・ファニーこと田中宏之は、結成時のラウドネスに参加するも音楽性の相違から程なく脱退。元レイジーのキーボード・ポッキーこと井上俊次ノヴェラの影響下にあったプログレッシブ・ロック・バンド、SOPHIAのボーカルだった貴智秋らとバンド『ネバーランド』を1981年9月に結成した訳なんですが、

1983年に担当したアニメ『サイコアーマー ゴーバリアン』のオープニング曲とエンディング曲。

昔からこの曲個人的に大好きで、どちらもアニソンでは屈指の出来だと思ってました。


オープニング曲は、エイジア感のある大仰なイントロがワクワク度を高める一曲。


ゴーバリアン 孤独の旅路(LONELY JOURNEY)


エンディング曲は、カナダのプログレ・ハードロックバンド、ゼブラ(ZEBRA)の同名曲「Lullaby」と同テイストのビートリッシュ(ビートルズ的)な美しい泣きのバラード。


ララバイ



どっちもカッコ良くて好きですね。


ちなみにキーボードのポッキーこと井上俊次は、後にアニソン界ではご存じのレコード・レーベル、ランティス(現バンダイナムコミュージックライブ)の元社長だそうです。


それでは。

猫猫猫にゃー