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血縁関係

血の繋がりって儚いものですな。唯一の肉親も居るのが頭痛の種にもなるし。そんなものは不要だろう。こっちから切ってやった。天涯孤独になったけど、親友が居てくれるから天涯孤独であっても何とかなる。まぁ、孤独死は間違いないだろう。死際には多分、お母さんが看取リに来てくれるだろう。そして天国に連れて行ってくれる。帰天した母が降りて来て看取ってくれるなら私には最高の最期。生きる気力も無くなりそうになるが、無い気力を振り絞って生きろ、と何かに書いてあった。自殺は絶対にしないが、そうまでして生きて何があるのか?と思う事もあるが、肉親より遥かに寄り添ってくれる親友の優しさ、吹奏楽定期演奏会での感動、特に長崎南高校吹奏楽部、長崎東中高吹奏楽部、そして、佐賀市民吹奏楽団!来年も聴きたいと思う。天涯孤独故の寂しさもありはするが、親友、そしてブラス、取り敢えずこの大切なものを糧に生命を全うする!そうしていれば、大切なものも必然的に増える筈!


さて!感動の長崎東中高吹奏楽部と佐賀市民吹奏楽団の定期演奏会の感想は近日投稿しますので。誰も待ってないか(笑)

聴けなかったコンクールでの演奏2

あの忌わしい大水害に、長崎市へ通じる国道、鉄道は寸断され汽車やバスでの長崎入りは不可能だった。何せ当時は高速道路なんてなかった。同年11月にやっと長崎自動車道の極一部、大村インターチェンジから長崎多良見インターチェンジが開通したに過ぎない。「コンクールも中止か延期かな?」と思ったが開催された。大水害から約1週間か2週間、多分1週間位後だったと思う。「行けないか」と諦めていたら、当事者の必死の復旧工事で長崎バイパスのみ先に開通。長崎バイパスは諫早と長崎市街を繋ぐ有料道路。私は佐世保発長崎行きのバスで行く予定だった。長崎バイパスを使用するのは佐世保から長崎をノンストップで走るビジネス特急やまびこ号だけだったが、何せ通じる道が長崎バイパスのみだったので、例外的にやまびこ号以外の佐世保長崎間を結ぶ特急、急行バスも通行出来た。おかげで南部地区予選に行ける事に。予選当日、長崎県営バス長崎駅前行き特急で普段は通る事のない長崎バイパスを。東長崎地区を通るのだが、長崎東高校がどうなのか気になりつつ長崎市街へ。長崎市内はまだまだ土埃が凄かった。流されて放置されたままの自動車も見た。よくあれでコンクール開催が出来たもの。公会堂だったか、市民会館だったかは忘れたが。標高から言えば公会堂は被害があったかも。さて、長崎東高校吹奏楽部の演奏を楽しみに会場入り。出場高校の名前がアナウンスされたが…長崎東高校の名前がアナウンスされない!?最後に


「なお、長崎東高校吹奏楽部は出場辞退です」


………東長崎地区の凄まじい被害を見たら、正直、嫌な予感は少ししたが……それが現実となった事に、愕然とした。東高校吹奏楽部のあまりにも残酷な出場辞退と言う選択。いや、選択の余地などなかったのだろう…部員さんの無念な思いは到底計り知る事など出来ない。あれ以来、私は長崎東高校吹奏楽部の演奏を聴く機会を得なかった。しかし、長崎東高校吹奏楽部はずっと私の心の中で、素晴らしい演奏を続けてくれていた。その長崎東高校、今は長崎東中学高校だが、42年の歳月を経て遂に演奏を聴く機会が訪れた。非常に感慨深いものを感じた。あの長崎東のブラスサウンドは変わっていないだろう、あれ以降もコンクールでいい結果を残していたし、そう確信し、長崎ブリックホールに向かった

聴けなかったコンクールでの演奏1

1981年か82年前半かな?県の吹奏楽イベントで当時の長崎東高校の演奏を初めて聴いた。あまりの上手さにシビレまくりを通り越して唖然って感じだった。私の知人も「何と言っても長崎東ばい!シビレた!」と興奮していた。県北の上手い高校など寄せ付けない素晴らしい演奏だった。上手いだけじゃなく凄い感動を伴う演奏だった。


当時の長崎県吹奏楽コンクールは先ず県南と県北に別れて予選をし、そこで代表に選ばれた学校が、九州大会進出をかけた最終予選をしてたのかな?とにかく分けてあった。で、私は長崎東の演奏を聴きたくて県南部予選を聴きに行く事にした。長崎東だから九州大会進出をかけた最終予選進出は間違いないだろうからその最終予選に行けば良かったのだが多分行けない理由があったんだと思う。県南部予選は82年7月下旬だった筈。非常に楽しみだった。だが!ここ迄でピンとくる人は今や少ないかな?


その7月下旬の金曜夜、私は毎週視てた「太陽にほえろ!」を視ていたが、画面横にノイズが入り、見にくかった。あれ程ノイズが入ったのは後にも先にもあの日だけだった。原因は激しく降る雨。「凄い降り方だな」と思いつつ太陽にほえろを見続けた。その夜こそ1982年7月23日、死者行方不明者合わせて299人と言う多数の命を奪った


「7・23長崎大水害」


の夜だった。私は長崎南部居住ではなかったので難を逃れたが。長崎市は特に東部地区の被害が甚大だった。「長崎東大丈夫かな?」との思いが頭を過ぎった。