勉強が好きなこと | はれ、ときどきフロンターレ

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北海道から川崎に移住したのをきっかけに、Jリーグ・川崎フロンターレを応援するようになりました。

夢推しサポーターで北の歴女・くーちゃんです。

先日、たまたまキャリアカウンセラーの方と話をする機会がありまして、そこで指摘されたのが「学ぶことが好きだよね」ということ。
確かにその傾向が強いし、マニアックな部分も結構持っている。ただ、無駄にインプットしすぎて、実践には使えないという欠点も持っている。
実践には使えない、という部分を見ると、どの業界でも働ける強みはあるかもしれないが経験がないだけに役に立たないと思っている。多分それが前提になってるんだと思う。
そういうことで、自分は組織の中でルーティン・ワークで生き延びることより専門職で生き延びた方が向いてるのではないかと感じている。

そう思った矢先に、こんな記事を目にした。
「小島慶子 ブスの学力、美人の学力~見た目の呪縛」
それにしても、女性はどうしてこうも見た目に左右されるのだろう。見た目の品定めから自由な女性はいない。品定めするのは男ばかりではない。「あの女優は整形」「あのアイドルは劣化した」などと言いたがるのはたいてい女性だし、身近な女性の身なりの変化にもめざとく気づく。美人にはバカで性悪であって欲しいと願い、不美人を軽んじる気持ちもある。
そういえば、子どもの頃からイメージさせられてた「勉強が好き→ガリ勉=ブサイク」という方式は、世の中が求める『美人にはバカで性悪であって欲しい』ということじゃないかと。だから女子アナが漢字が読めなくて、隣の男性(ここはアナでも、芸人でもだれもOK)のよこで笑っていわばそれでいいというのは、この『バカで性悪であってほしい』という願いの「前提」があるからこそ成り立っているんだと。

これは市場価値などについていってしまうとキリがないので敢えて省略するけど、雑誌などで出回る「ナンタラ女子」「あーたら系」というのにも通じるんじゃないかって。

で。

勉強をする、というのはブサイクが生き延びるための方法というものではないと思う。
世の中には「学びたくても学べない」人もいるわけで、日本以外では「生き延びるために技術を持つ、何もなければ生きていけない」というのが当たり前になっている。同時に、「勉強が好きだ」という人ほど収入を得ているという話も聞く。

特に女性は、「学ぶこと」と「仕事をすること」と「家事・子育てをすること」のどれかに専念しなきゃ、ということを求めがちだが、『どれか』じゃなくて『いずれも』となった方が生き延びやすいのではないかと。
それゆえに「学ぶことが好き」というのは、ブサイクが故に生き延びる方法としてのものではなく、「人として生きる方法」だからこそじゃないかと思う。

まあ、私のことを言っちゃうと「学ぶことが好き」というのは強みでいいんだということなんですね。多分。