あなたはそれでも美談にしますか(2) | はれ、ときどきフロンターレ

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北海道から川崎に移住したのをきっかけに、Jリーグ・川崎フロンターレを応援するようになりました。

夢推しサポーターで、北の歴女のくーちゃんです。
前の記事の続きということで。


一晩たって、改めてみてみるとほとんどが「あれはどうみても」という意見が多かったと思います。参考までに。

羽生選手の周囲は止めたと思いますが、最終的には本人の決断でしょう。気持ちが強いとは思いましたが、2人とも若く才能、素質がある選手。この試合がゴールではないので、選手生命を考えると無理してほしくなかった。私自身、体を壊して滑れない時期がありました。だからこそ、スポーツは健康な体があってこそだと思うのです。
「【鈴木明子の目】羽生に無理してほしくなかった」報知新聞2014/11/9付)

まさにこれ。
若いからこそ無理してほしくないし、そこまで頑張ってしまうのは痛々しくてみてられなかったから。
だけど一方こういう表現もちらほら。

羽生選手は、倒れてから10分後には練習に復帰した。そして、さらに本番にも登場した。本番は転倒をくり返しながらも、幸いにしてなんとか演技を終えることができた。

さて、ここで最大の問題は、その姿を、マスコミや観客、視聴者は、「感動した」「涙が出た」とたたえたことである。
「羽生選手に「感動」するだけでよいのか? 誤ったスポーツ観が選手「生命」を奪う 脳震盪後、1日は安静に」内田良)

今朝のニュースまで、メディアは「意地だった」「金メダリストとして」「感動した」っていう流れだったけど、『サンデーモーニング』で大八木淳二氏が「個人は横に置いて、あれは周りが止めなきゃ駄目。恐らくその場の空気とか、スポンサーとかあったんでしょう、でも周りが止めないと」といってたのが良心だったような。

そして先述の内田良氏のコラムより。
羽生選手の側には、本番をこなさなければならない事情もあるだろう。ファンの声に応えたい気持ちもあっただろう。そのことは個別の問題として置いておくとしても、どうしても気がかりなことがある。それは、脳震盪に対する関心の低さと、脳震盪(の疑い)を乗り越える姿が美談化される日本のスポーツ文化である。日本のスポーツ文化は、根性で危機を乗り越える場面を、拍手でもってたたえる。そこには感動の涙が溢れている。

脳震盪の可能性が疑われるのであれば、どうか今回の出来事を機に、考え直してほしい。そうした「拍手」や「感動」は、選手の生命をむしろ危機に追いやる可能性があるのだということを。

更に若手のフィギュア選手も(※KAJITA Kento →日本スケート連盟の強化選手

美徳であってはいけない。
選手生命としての将来を考えて。
これなんですよ。
誰も感動なんて求めていないんです。
昭和的価値観の「気合と根性と精神論でなんとかなる」という時代じゃないんです。
こういう風にどういおうとしても、これなんですよね。
ただ、唯一絶対の「正しい選択」はないと思うのです。
人生を決めるのは他ならぬ自分自身。

鈴木真奈美さんのブログ(2014/11/9付)より引用)

結局、ここなんですよね。最終的には。決めたことだから何も言えないよなあって。
だけど、今後のことを考えて、「もしそういうことが起きたら…」というのを想定した危機管理マニュアルなどの規定を作っていただけると納得し合えるのではないかと思っています。