夢推しサポーターで、北の歴女・くーちゃんです。
フィギュアスケートGP・中国戦を見ていたのですが…羽生選手と閻涵(ハンヤン←英語読みのため)選手のアクシデント関連について、考えなきゃいけないなあと思っていました。
最初に思ったのは、会場が中国ということでスポーツに関わるこれまでの問題と同一視してしまったこと。「あれはわざとじゃないか」と思ったのですが、繰り返し流れる映像を見て「やむを得なかった出来事」とかえました。
そして、本来なら棄権も余儀なく…という状況にもかかわらず、リンクにたったこと。コレに関して感動した、よく頑張ったという意見もあるかと思いますが、私個人としては複雑でした。
まずは「リンクに立つ」という決断について----これはコーチと選手の関係性にも影響しているように思えます。
日本人指導者の場合、上下関係がベースになっています。これはいろんな分野において、「師匠と弟子」の関係がベースになっています。
だから、師匠が持っている技術やエッセンスなどを弟子がそれを学ぶ形で受け取り、そして人間形成につなげていきます。師匠の力は弟子から見ると絶大で、落語界などでは「師匠は弟子の一切の生殺与奪権を持っている」(as所有物である)という観点で成り立っているくらいです。そのため、選手が指導者に判断を仰ぐという姿がどの分野にも見られます。つまり、師匠の言うことは絶対なので、師匠が「棄権を」というなら弟子はその選択肢を選ぶことが当然なのかもしれません。
しかし、アメリカやカナダなどの国籍を持つコーチは、どちらかと言うと技術面などを重点にしています。『コーチング』という言葉のように、あるゴール設定をしていって、そこにたどり着くにはどういう形に持っていくか…そのノウハウを持っているのがコーチで、クライアント(ココでいうと選手)はそのゴールに向けて持っているスキルなどを使いながら考えていくのです。
つまり、選手自身で判断することがベースになっていて、答えを自身でだしていくことが前提なのです。
いずれもその教育環境の影響なのかもしれませんが、指導者なりコーチが一番よく見ているのだからその選手(クライアント・弟子)にとってよいヒントを与えたほうがよいのかもしれません。
ちなみに今回の場合、オーサーコーチは羽生選手に決断させた形としていますが(コーチ自身「体の方が大事」といっています)、もし日本国籍のコーチだったら間違いなく「棄権した方がいい」というかもしれません。
あと、「お国のために頑張った」「涙が出て感動しました」「素晴らしい根性」というニュアンスの美談について。
個人的に「お国のために頑張った」という感覚は1ミクロンも感じません(これはあくまで私個人の、ということで)
あれは前述のように「決断」したからにはやろうとしたわけで、性格的なこともあったからではないでしょうか。
長くなったので続きとして。