ビオラ・ダ・ガンバ(古楽器)奏者の 平尾雅子 さんが、ルネサンス期の音楽家ディエゴ・オルティスによる、当時の演奏技法の粋を著した大著「変奏論」の翻訳を、25年の歳月をかけて完成させたそうです。
即興が生む生命力 平尾雅子、「変奏論」翻訳
ルネサンス期には、必ずしも楽譜のみにとらわれない、自由な演奏が行われていたことを、ご存知の方もいることでしょう。
一方ジャズでは、元のメロディーの形を残しつつ、装飾音を加えたり、リズムを変更して演奏することは、フェイクと呼ばれており、普通に行われています。
さらにアドリブ演奏では、コードネームで指定される機能的和声だけが残って、奏でられる旋律は全く自由な即興演奏となります。
クラシックの分野の方が即興演奏をしても、形式的で、通常はあまり面白くありません。
ジャズにおいてアドリブ演奏は、自分の内面を反映する表現として本質的なものですが、クラシックにおいてはあくまでも作曲者に忠実に、形式的な様式美を再現することだけになりがちなのだと思います。
同じ25年の歳月を費やすのであれば、すでに完成された様式を学ぶのではなく、それぞれの人生経験に基づく独自の音楽体験を重ねて、そこから個性的な表現としていかせる方法を模索することを、私なら選びますが…。
ところで、クラシックにおいても、独奏曲の前後にカデンツァと呼ばれる部分が存在することがあり、過去にはここで独奏者が即興演奏をしていた時代もあったそうです。
ところが、個々の独奏者が技巧を競うあまり、極端な演奏をして収拾が付かなくなって、やがては作曲者が演奏する音を全て譜面に記すようになってしまったという、苦い歴史のようなものがあります。
実は20世紀のジャズにおいても、同様のことを経験しています。
ジャズでは、複数の独奏者がその技巧を競い合うように、ソロを次々に展開する演奏のことを、バトルと呼んでいます。
これがある一定の限度を超えると、しばしば芸術の範囲を超えたパフォーマンスになってしまうのです。結果として、演奏者には苦痛となり、聴き手はついていけなくなって、置き去りにされてしまうというようなことが起こります。
ジャズ演奏全般が衰退したのは、このようなことが一因にもなったと、私は思っています。
今回ご紹介する「宮間利之とニューハード」は、アンサンブルよりも、それぞれの奏者の演奏技術を売り物にしていた、かつての日本を代表するビッグバンドの一つです。あまり歌謡曲の伴奏などはせず、ジャズ演奏を主にして、1970年代を中心に活動していました。
ここでは、トロンボーン奏者が順番に、バトル演奏をしています。
Miyama Toshiyuki and his New Herd " Watermelon man "
Battle of Trombones.
(2010-01-30 23:28:47)